ついに終章。
「受け入れられない自己」の肖像
戦後70年に生み出された3つの系の社会意識
1:労働
2:家族
3:アメリカ
これらを繋ぐのは「豊かな暮らし」
労働は「豊かさ」のための手段
家族は「豊かさ」を分かち合う場
アメリカは「豊かさ」の手本
だれもがこの「豊かな暮らし」を享受する権利があり、それを獲得する機会において、平等かつ公平であるべきだ、と信じてきた。
それが三世代続いてきた。
それが本筋。
裏筋として、
「誰もが豊かな暮らしを享受する権利を持つ」というタテマエは、「誰もがそれを享受するわけではない」というリアリズムを招き寄せてしまう。
この事例として、永山則夫、奥浩平、円谷幸吉、日活の流れ(男性から女性へ)、中島みゆきが挙げられている。
そして、それらが「受け入れられない自己」を表している。
そして、「豊かな暮らしを求める社会」は終わった。
その事例として、東電OL殺人を挙げている。
これからは「豊かな暮らしを諦めざるをえない社会」
ただ、続いているものもある。
中間層だと思っている人は減っていない。
エヴァンゲリオンも続いている。
オウム真理教のようなものを信じてる人たちもいる。
村上春樹はまだノーベル文学賞は受賞していない。
終わったものもある。
アメリカに対する深い洞察を披瀝した二人の書き手がなくなった。
団地はすたれた
堤清二が代表の座を下りた。
感想
ここでいう「豊かな暮らし」を追い求める姿は現在も続いていと思う。
そういう意味では、まだ戦後であると言える。
ただ、一方でその「豊かな暮らし」の破たんもまざまざと見せつけられている。
それは、働き方においても、家族においても。また、アメリカを手本とするところも以前よりは陰りを見せていると思う。
これだけ成功してしまっただけに、どこかを改善しながら変えていくというのは難しいかもしれない。
成功体験ほど尾を引くものはない気がしているから。
でも実はやんわり変化させ生き延びていくのは、見方を変えれば日本人の特質なのかもしれない。
そこをうまく使うのはひとつの手かもしれない。
既存の「豊かな暮らし」は諦めざるを得ないかもしれないが、これからの「豊かな暮らし」を追い求めることは可能だと思う。
それはアメリカ的な豊かさはなく、本来日本人が持っている清貧のような豊かさなのかもしれない。
あるいは、お金を稼ぎ、物質的な豊かさや余暇の充実度を上げるという豊かさから、お金は生活する程度で、精神的な満足度(だれかの役に立っているという貢献感)や働くということ自体への楽しみ度を上げるという豊かさ。
そんな新たな豊かさ、幸せ像を作れるよい時期なのかもしれないし、私はそう思っている。
その一つの試みが「学校づくり」
ないものに目を向けるのではなく、あるものに目を向け、好きなことを仕事し、必要な分だけ稼ぎ、空いた時間は自分の家族や地域とのつながりの時間に使う。
そんな「意識」を育てたいと思っている。
かなりの分厚い本で、私の知らないことがたくさんあるなかでの読書だったけれど、なんとか読み終えることができたのは、よかった。
ただ、こういう類の本はまだ一冊しか読んでいないので、もう一冊くらい読んでおきたいなと思う。