会社のリストラと学校のいじめ

ようやく読み進めている「幸せ」の戦後史

全体の流れは目次をどうそ。

「幸せ」の戦後史

最初に「社会意識」とはなにか、ということについて。

いきなり「ふるさと」を伝える流行歌から始まる。

知っている曲もあるけれど、知らない曲もたくさん。また改めてそれぞれの曲も聴いてみよう。

ざっくりいうと、今はもう帰ることのできる「フルサト」は心の中にしかないのでは?という投げかけ。

そういわれてみれば、私の「フルサト」といったら、祖父母の田んぼに囲まれた吉浜を思い浮かべるが、それは昔でいう「ふるさと」ではないんだろうな。

その後、社会意識とはなにか?ということについて説明がある。

社会の実体そのものが変わり、社会意識全体が変わるものでもあるし、実体ではなかったただの意識が社会を変えていくこともある。

例えば、実際に核家族化になってきたけれど、実は実際の数値はそれほどでもなかったかもしれない。しかし、そういう意識が広まっていくことで、実際に気が付いたら自分も核家族として生活している、という感じか。

お互いがお互いを食らいながら、全体としてカタチを変えていくという感じ。

 

次に、この社会意識をどのような方法で捉えるか。

「社会意識」があふれ出したと思える行動や言動を社会事象や文化事象から取り出し、その背景を探るというやり方。

 

そして、第一部「壊れかけた労働社会」第一章

リストラがやって来た

平成リストラは日本に「働く中間階級のためのきちんとした労働市場」が形成されていないまま行われてしまった。

当時、中高年のリストラを悲哀ややりきれなさを綴って世の中の意識として刷り込まれたが、実は一番締め出されたのは若年層。

しかし、その事実を隠蔽するかのように、「パラサイト・シングル」という言葉や「引きこもり」「少年犯罪」などを取り上げることで、若者に対する嫌悪や恐怖を社会一般に流布させ、既得権益を持っている中高年層が若年層を排除しようとした。

リストラという排除行動が求められたとき、一番弱い若者が標的になり、はじきやすい存在であったために、正当化するために「若者嫌い」がつくりだされたのではないか、という考え。

 

1950年代~60年代に欧米は「包摂型社会」のピーク。包摂=同化。

多数者へ同庁が重視される社会。(イギリスの社会学者のジョック・ヤング)

これが、「排除型社会」へ変貌していった。

1・労働市場からの経済的排除・・・平成リストラ

2・市民社会の人々で起こった排除・・・若者バッシング(欧米では移民や異民族などが攻撃を受けやすいが日本は同質的であるために若者がターゲットとなった)

3・刑事司法制度と個人プライバシー保護の領域で広がっている排除活動・・・日本では、少年法の刑事罰対象年齢の引き下げなど(基本は厳罰化)

このリストラというものが、近代社会の大きな変容に発するものではないか。

そして、これに伴って様々な変化が「いわば猫の歩みのようにこっそり引き起こされていく」

この変化の正体を追ってみる必要がある。

 

以下、感想

このリストラの部分を読んで、ちょうど昨日読んだ「いじめの変化」と重なる部分が多いと思った。

スタートはまずは第一期、第二期である、劣っている者、優れ過ぎている者をイジメる時期が一つ目の労働市場からの排除

次は第三期の、劇場型(イジメる人、いじめられる人、観衆、傍観者)のなかでいじめが行われる。これが市民社会の人々で起こった排除。

そして、現在第四期、仲のいい仲間の中でさえいじめが起こっている。ここは個人のプライバシーの中にまで入り込んでいる排除活動にあたるのではないかと思った。

社会の実態が意識化し、空気感としてただよって、それに敏感な子どもたちに伝わっているのではないかと感じた。

 

現実の社会を変えるのはなかなかパワーがいると思う。創造と破壊というくらいだから、それこそ破壊するくらいのパワーがいるかもしれない。

ただ、お互いが影響し合っているという前提を考えれば、子ども社会を変えることで、大人社会を変えることもできる可能性はあると思った。

どちらにしろパワーはいると思うけれど、後者の方が、創造的パワーが主となるような気がしている。

 

引き続き「壊れかけた労働社会」の部が続く。