学校とゆるやかに伴走するということ

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学校とゆるやかに伴走するということ

読み終えた今、著者の石川先生とともに旅をした感覚になった。

このシリーズの「学校でしなやかに生きるということ」と同じように石川先生がが見たものの感じたことをそのままの高さで伝えてくれる本だと感じた。

そういう意味で、フラットななかで進んでいく物語という感覚だった。

「しなやか」というとそこに様々な大きなカーブがある。

今回、「ゆるやか」という言葉は、ある意味一本道があって、その周辺を同じ方向を見据えつつ、ちょっとわき道にそれたりするという感じ。そこからの「伴走」という言葉へのつながりがあるのだなぁと思った。

1章は生徒との直接的関わりから。

2章、3章は先生、そして職員室(学校)との関わりから。

私は先生ではないので、2,3章はイメージのなかでしかないが、ここに書かれている見方ややり方というのは先生や職員室に限ったことではなく、地域の自治体でも同様のことだし、子育てもそうだと感じた。

特に今私が勧めているポジティブディシプリンの学び方は非常にそのスタンス、やり方が似ている所がある。

正解のないなかで、「学ぶ」「成長する」といった点での原理・原則というものがそこにはあるのだろうと考えた。

 

今私の置かれている立場もあり、第1章に強く心が動くものがあった。

P.19 「何かが変わっていくというのは、変えてやる変えてやろうと息巻く形を超えた向こうで、はじめて動き出していくものなんじゃないか。」

P.24 「結局、熱烈に変えようと思うのではなく、少しずつみんなで考えながら、結果として変わっていくような、そういうのがいいなあと思うのだ。」

改めて今自分のやっている取り組みを考える。

確かに「変えたい」とは思うものの、そこにあまり肩の力を入れて取り組まない方がいいと自制している自分がいる。

そこには自分のパーソナリティを考えているということもあるし、作用反作用ということも考えている。

何かをやろうやろうとすればするほど、その作用には力がかかってしまう。

そして、反作用として、それと同等のものが返ってくる。結果非常に力を常に必要としてしまうことになり、疲弊する。

そして、やめてしまう。

私自身、継続する、ということを大切にしたいと思っているから、そのようにしているわけだけれど、そういった考えを支えてくれるような言葉だったので、心が動かされたのだと思う。

 

「行事が一過性のイベントとして消化されるようになった」P.26

ここでは運動会や文化祭、合唱コンクールなどについて、石川先生が感じていることだという。

私も同様なことを感じている。

そのときがよければいい、というような感じを受ける。

もちろんそのときそのときの積み重ねがつながっていくわけだけれども、そのつながり感がないという感じかな。

これはこういった行事のとどまらず、「教育」に関わるものがどんどん一過性のものになっていっている気がする。

ただ消費しているだけ。

ただ消費しているだけというのは、その先に何もつながっていないという感覚。

 

この部分を読んで考えたこと。

「教育」が「娯楽」になっていっているのかな。

運動会を見ていて思うのは、親の都合をいろいろ考えてくれているのかな、というところもある。

そして、そうやって考えさせてしまう親のマインドもどうなのかなって思う。

まぁ今、親の私たち世代はどっぷり消費社会に使ってきた世代だから仕方ないのかな、と思うところもある。

結局、昔、産業構造と社会背景と学校状況が見事に絡まり合って、「富む」ということに向かっていったように、現在は「享楽」に向かってそれぞれが絡み合っているのかなと思った。

そして、それはおそらくあまりよい方向ではないと思っている。

 

今回瀬戸市では、子どもたちが夏休みに自分のやりたいに向かって取り組むという「キミチャレ」という取り組みがお休みとなった。

おそらく様々な理由があるとは思うけれど、なぜやめたのかという質問に対して、口からこぼれた言葉が、

「発表会のようになってしまっているのでは?」という言葉だった。

スタートしたときに携わっていた自分、スタートをさせた人の思いを知っている自分としては、残念でならない言葉だった。

目を向けるのはそこではない。というか、そこはどうでもいいのだ。

そこにいたるまでの様々な経験や記憶が、大人になって無意識的にも、意識的にもつながっていく可能性があるところに、良さがある。

発表がどうだとかいうのは大人が、刹那的な体裁を求めているという表れではないかと思う。

 

ただ、市がやらないと決めただけで、各学校でやることは可能だと思う。

一校くらいやってもいいんじゃないかと思うけれど、そういう学校はなかったようだ。

各学校の特色を出すということだとしたら、校長裁量でも十分にできるものだから、やったらいいのにと思ったりもした。

 

少し話が逸れたが、では、これからどうしていったらいいのか、ということ。

ここでもやはりバランスだろうと思う。イベントもやる一方で、地道で継続的な活動をしていくということになるか。

また、必要以上にイベント化をしないということだろうか。

そして、親は大人なんだから、たとえそのとき満足できなかったり、多少不愉快な思いをしたとしても、そこにある未来につながるもの踏まえて、それらの感情をうまくコントロールするということだろうか。

 

「ぼくは食に関してお手軽であることの害悪は結構大きいかもと感じている。」P.33

「だがやや乱暴にいえば、食事をつくるということは、生活するということの核心でもある。そして「生活」の安定のないなかでよい実践を生み出していくのは困難だと思う。」P.33

「何かをつくるという手応えを、自分の手元に引き寄せておけない生活のなかでは、実践は荒れていくということを言いたいのである。」P.34

ここでは、教育という手ごたえが目に見えない仕事をしているからこそ、実感として「食事」と関わるということなどについて書いてあるが、今回は私の思ったことということで。

現在、瀬戸ツクルスクールのカリキュラム(あえていえば、だが)の中心は「昼食づくり」である。

その日一人300円という予算のなかで、予算を持ち寄り、そのなかで食べたいものを考え、具材を買いに行き、自分たちで作って、ゆっくり食べる。

最初は意図的にその教育的意味を考えてはいなかった。単純にお母さんたちがお弁当をつくらなければいけない状況は避けたいな、というところからだったわけだが、ここには非常にたくさんの要素があると思っている。

もともとは、料理は頭をフル活動させるし、ほぼ教科科目を学習するときと動く脳の場所が同じだということを読んでいたので、そのため、ということでもあったが、それを超えたことがたくさんある。

同じ釜の飯を食う

昔から言われているだけあって、ある意味の原理・原則なのだと思う。

人とのつながりを作る上で必要なことなのだろう。

ちなみにcompanyという英語がある。その意味は、会社という意味や友達という意味がある。

元々の語源は、com=いっしょに、pany=パン。すなわち、ともにパンを食べる、というものである。

人間にとって、ご飯を考えて、作って、食べるというのは、食欲を満たすということ以上につながりを作るということに欠かせないのだと思う。

だからランチとか飲み会が大事なのかもしれないw

一人で食べるご飯もおいしいけれど、みんなで食べるご飯はおいしい。

逆にそれほどおいしくなくても、みんなで食べるとおいしい。

逆にすごくおいしくても、関係の悪いなかで食事をすれば、そのおいしさは半減するだろう。

そう考える、マズローのいう食欲よりも、やはり社会的つながりのほうが基本層にあるのではないかとも考えてしまう。食欲も睡眠欲も性欲も社会的つながりあってこそだと思うしね。

 

ミスチルも「世界の一お酒は、必死に働いた後の酒です」と言っているしね。

 

この本のなかで、「学習のなかでの傷つきは、学習のなかでしか癒せない」という部分もあったが、それは「活き活き生きる力」もそうなのかもしれない。活き活き生きる力は、生活のなかでこそ成長していくのだろうと思う。

石川先生の言葉を借りていうならば、これだけ日常生活が情報中心となった手ごたえのない社会では(例えば、手紙ではなくてメールとか、実際に集まって遊ぶのではなく、ネット上で遊ぶとか)、こういった手ごたえを感じられる瞬間が少ないと、その生活は荒れていくのだろうと思う。

 

ということで、3点自分のなかで特に気になったことを基に、いろいろと考えて書いてみた。

なんだか教えている読書感想文を自分でやっている感覚になったw

 

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