どのような教育が「よい」教育か 第一章

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第1章 教育をめぐる難問

1・教育の論じられ方

「教育」はだれもが語れる開かれたトピックだが、それだけに以下の2つの問題がある。

1・「規範」(あるべき教育の判断基準)

どんなにあるべき教育の判断基準を述べてみても、無意識的に自分の経験を過度に一般化してしまっていることが多い。たまたま自分がそうであっただけにもかかわらず、すべてがそうでなければいけないと考えるように。

2・「事実認識」

マスコミなどによるイメージと事実のかい離。そういった偏った事実認識によった間違った処方箋による更なる悪化。たとえば、少年非行の凶悪化が進んでいる、というが、実は1950~60年代よりは減っていたり、など。

 

これら、特に1により、教育学による「規範」が「欠如」してしまっている現代。

現状把握はある程度できるようになったものの、それが「よい」のかどうか判断できなくなってしまっている。

 

2・教育のいま

ここ30年間

・新自由主義(自己責任と自由競争、弱者を切り捨て、エリートが国を育てれば、そうでないものもおこぼれにあずかって豊かになる、という発想)

・新保守主義(愛国心や伝統の尊重、道徳意識の涵養を重視。ある種の一元化)

この2つが手を組んだ。

格差が生まれたとしても、あらかじめ教育で連帯意識(愛国心など)を備えたある種従順な国民を作っておけば、不満が押さえらえるだろうという理由。

そしてこの流れのなかで、様々な施策が打たれてきたものの、さらなる多様化で、どんどん複雑化してしまい、対立軸が増えている現状。

それをどうにかしようとしていて、地域との連携がその候補として挙げられてきている。

その施策の一つがコミュニティー・スクールということではあるけど、これについては限界があると思っている。

かなりの気概がある人物か政策に影響されない人物でないと、結局上位階級に阿ることになってしまうと思うし、実際にそうなっているところが多いとも聞く。

それにしても、結局は「それ」が「よい」かどうかはわからない。

でもそのままでは何の構想も練られるわけもなく、やはり「どんな教育がよい教育なのか」という問いには答える必要はある。

 

3・教育学の混迷

結局どんな思想もこの「よい教育とはなにか?」に答えられていない。

「理想・当為主義」・・・とにかくこの教育が絶対だ!というもの。こういう立場をとってしまうと、結局それぞれの教育観が対立してしまう。

「相対主義」・・・絶対に正しいことなんてありえない、ということを強く主張するもの。

近代の教育思想がどのようにこの「絶対的なものなどない」ということにより解体されてきたか。

19世紀「教育は、人間が考え出した他のあらゆる工夫にまさって、人々の状態を平等化する偉大なはたらきをするものである。」(アメリカ公教育の父ホレース・マン)

↓解体

「資本家階級が、労働者階級の労働力を高め、同時に、労働の果実を資本家の利潤に転換することを可能とするような社会的条件を再生産するような制度として求めたのが学校教育であった。・教育的体験を通じて、成人して労働者になったときに直面する、無力感の度合いを受け入れるように誘導すること」(ボウルズ=ギンタス)

「学校は前もって権力に従順な子どもたちを育てる場として機能することになる。」(フーコー)

「学校制度はチャンスを平等にしたのではなく、チャンスの配分を独占してしまった。」(イヴァン・イリッチ)

こうして、絶対的な答えとされていたものが、どんどん崩されていった。

その結果、なにを目標にしたらいいのか、という問いに対して、積極的に答えるを空気を失ってしまった。

 

その後、もう一度「規範主義」を整えようとするものの、結局それが「理想・当為主義」に退行してしまっている。

 

さて、こんな状況のなか、「どのような教育がよい教育か?」という問いに対して答えていけばいいのだろうか・・・

 

第2章に続く・・・・