3冊目 反共感論
「共感」というものについて、批判的にいろいろと考えてある本。
「共感」を過大評価しているのではないか?ということをいろいろと。
まず「共感」を考える上で、最低限の区別
「情動的共感」と「認知的共感」
それぞれの定義がしてあり、著者が問題提起しているのは、「情動的共感」である。
ここでは、「他者が感じていることを自分でも感じること」としている。
例えば、子どもがお腹がすいて泣いているときに、自分もその子どもと同じように空腹に対して感じることということになるかな。
遊園地で、親とはぐれてしまって不安になっている子どもをみて、自分も同じようにだれかとはぐれてしまったように不安を感じること、かな。
そして、この「情動的共感」のもつ特性を考えると、それをもって善悪や、道徳性や政策を判断することはとても危険な事であるという。
その特性とは、数的感覚の欠如とスポットライト効果。(詳しくは本を読んでください。)
子育てにおいても、これは大いに言えることだと思う。子どもがなにか体験していることに、情動的に共感してしまうことで、過干渉や甘やかしにつながることが多い。
冷静に考えればわかることなのに、そのときの気分によって不適切な行動をしてしまう、ということ。
人間は感情の奴隷ではない。このあたりはアドラー心理学でいっていることと違いはない。
人間は感情を使える理性を持っているという考え。
そのときの感情に流されてしまうと、悪いものも善いものとして振りかざしてしまうことが結構ある。
最後の訳者あとがきがおもしろかった。
この情動的共感とtwitter(SNS)とのつながりに対する考えが書いてあった。
直感的なtwitterは必要なフィルター(理性)を通り越して、情動システムを繰り返し呼び起こす。
ちょっと冷静に考えれば、そこにはいろいろな事象があるはずなのに、それを通り越して行動する。
これが炎上といわれることにつながるのかもしれない。
また、「自分」というフィルターを通さないことによって、いつも他者の目に振り回されているということになる。
自己アイデンティティの喪失
うまくまとまらないが、こういう視点でしばらくいろいろと考えてみたいと思った。
ほかにも興味深いところもたくさんあった。
「共感」という言葉を使う仕事についている人は読んでおいても損はないと思う。