問い続ける教師
ずっとお世話になっている多賀一郎先生と、学校を運営するにあたって、今後の方向性の参考としている苫野一徳先生の共著。
読み終わった感じたことは3つ
1・二人の組み合わせがばっちりだよな~
2・マイノリティ
3・まとめ
1・二人の組み合わせ、ばっちりだよな~
現場でずっと実践してきた多賀先生。一方で、そういう現場からかなりの距離のある苫野先生。
この二人の距離感がいいな、と思った。
どういいと思ったかというと、批判合戦にならない距離感。
実践VS実践になることなく、多賀先生の実践を苫野先生が冷静に分析している感じ。
いや、分析という言葉はちょっとしっくりこないなぁ・・・
実践の解体?哲学への橋渡し?
多賀先生のやってきたことを、ぱっと広げてテーブルの上において、苫野先生がそれをずっと考えてきたことと結びつけるといった感じかな。
とにかく、権威争い、主導権争いにならない関係性がいいなと思った。
そんな関係性のなかで書かれているので、読んでいる方も安心しながら読めた。
ただ、安心ばかりではなく、哲学者との対話ということもあってか、やや緊張感も私にはあった。
多賀先生のやってこられことは、自分がやってきたことに重なるところが多い。
一体それをどのように料理されるのかな?という緊張感があった。
タイトルが「問い続ける教師」ということだけれど、そういう教師になるための一つの必要なこととして、「緊張感」はあるかもしれない。
2・マイノリティ
覚悟を持って弱者の側に立てるか。
弱者の側に立つということは、強者が気に食わないことも多々ある。
それでも、そちら側に立てるか。
学校文化のなか(社会でもそうであることがよくあるが)では、マイノリティが弱者になることが多い。
おそらく学校の先生になった方の多くは、マジョリティ(普通でしょって思っている)だと思っている人が多いだろう。(実はマイノリティだったりするのだが。)
だからこそ、意図的にそういう視点を持たなければ、弱者の側には立てないだろうと思った。
そして、私は、生きやすい世の中になるためには、マジョリティが住みやすいということもあるけれど、マイノリティが住みやすい、生きやすい世の中になることが、成熟した世の中、社会と言えるのだと考えているので、特にこの視点は心に残った。
私自身もマイノリティの領域を生きてきた気がする。
転校も多かったし、私のキャリアの積み方もそうだろうし、今の私の家族形態もそう認識されることが多いだろう。
マイノリティというと、いろいろと考えられる。
大多数とは違う考え方を持っている。
大多数が持っているだろうものを持っていない。
ただ、実は大多数といっても、よくよく話を聞いてみれば、それぞれが違う考え方を持っているわけだし、一人の人間がすべてのものや経験を持っているわけではないから、よく考えれば、だれもがマイノリティ。いや、マイノリティもマジョリティもないはず。
それをあまり考えず、あたかもみんないっしょだよねっていう流れに乗ってしまうところに、その2極が生まれてしまうのかもしれない。
なんだか話がまとまらなくなってきたが、教師という職業になった場合、どうしてもマジョリティに目を向けることが多い。それが悪いわけではないけれど、そこに意図的にマイノリティの視点を持つことは、必須のように思う。そして、教師がその機会を意図的に持てる機会としての「インクルーシブ発想の教育」はいいのではないかと思った。
まとめ
最後に今の自分の仕事に照らし合わせてみる。
私は教師ではなく、講師。
どのように違うかというと、私の中では、
教師は、どんな相手(子どもも大人も)が授業を受けるかわからない。
講師は、自分の考えや思いの似通った相手が授業を受ける。
そんな違いを背景に考えてみると、
教師(教える仕事)は実践に埋没してしまっても、それを子どもが教えてくれるかもしれないが(それに気づかない教師も多々いると思うが)、講師だと、自分の意見に賛同してくれる方が集まることが多いだろうから、意図的に振り返りを行い、自分の行動を哲学的に考えてみることは大事だと思った。
そして、一人ではなかなかできないかもしれないから、信頼関係のある人と共に考えるという機会を持つといいだろうと思った。
私も一度哲学的な振り返りをやってみようと思う。