学校のヒドゥンカリキュラム

今やっている自主学校瀬戸ツクルスクールでは、カリキュラムがない。

しかし、学校でやっている学習内容が意味がないとは思っていない。

むしろ、素敵だと思うくらい。

ただ、その内容よりも、それを学ぶ過程で知らず知らずのうちに身についてしまう隠された「教え」をどうにかしたいという思いがある。

・「怖れ」が人を動かす原動力だと思ってしまうこと。

・勉強はやらさせるものだと思ってしまうこと。

・人と比べること

・勉強が人としての評価を計る柱だと思うこと

・学ぶ機会は「与えられる」と思うこと

・ミスを悪いものだと思うこと

・答えはひとつだと思うこと

・答えが「ある」と思うこと

・できないよりもできるほうが「偉い」と思うこと

・勉強ができないことは「だめなこと」だと思うこと

・競争することで、他者を敵だと見なしてしまうこと

・「速いこと」だけがいいことだと思うこと

・積極的でないといけない、ということ

・自分はできない、と思ってしまうこと

・みんなと同じようにできなければいけないと思うこと。

などなど。

 

もちろんこれらは今の「学校システム」のなかで克服できないことではないとは思う。

しかし、相当の先生の力量がいると思う。

私が学びを共にしている先生方は懸命に努力をしていることは知っている。

これらをプラスに転じさせていることも知っている。

 

しかし、同時に、自分のやっていることを通して、いろいろなことを聞くと、そうではない先生もある一定数はいることは間違いない。

そして、今の「学校システムだけ」だと、普通と言われる先生もこの隠されたカリキュラムに対抗できないのではないかとも思う。

まず、外部からの刺激がないから、気づく機会が少ないということもあるだろうし、それこそ普通に授業が進んでしまっていることで、気づかないということもある。

 

この隠されたカリキュラム(ヒドゥンカリキュラム)に気づくために、様々な手があると思うが、「全くシステムの違う学校」の存在による刺激というのは、その手のひとつになりえると思っている。

似たようなものでは刺激として十分ではない。

「全く違う」ということが、刺激を起こすし、そこに大きな力が生み出されるのだと思う。

だから自主学校ツクルスクールでは「カリキュラム」はない。