先日、名城大学の社会連携ゾーンshakeという空間で、
「よい教育とはどのような教育か?」
というタイトルで、いろいろな方とお話をした。
いろいろと頭を廻ったことをメモ的に。
・「教育」は結構無意識的なもの?
最初に自己紹介とともに、自分が「よい教育」だと思ったことを話してもらう、という流れでやってもらいました。
ただ、改めて自分が受けた「よい教育」について考えると、なかなか思い浮かばない。
なにをもって「教育」なのか?ということも分からない空気を感じました。
そして、よくよく考えると、みなほとんど同じ教育を受けているから、「この教育がいい」とはいえないんだろうな、と。
あえて受けた教育といえば、
・同学年で学ぶ
・教科別に学ぶ
・教室に1人先生がいて、30~40人の生徒がいる。
・テストがある
・ドリルがある
・評定がある・・・などなど。
それが大前提で、ほかに知らないから、「教育」が何を指しているのかが、かなりあいまい。
ここに来てる人たちがそうなのだから、結構な割合で、「教育」について語るときに、どの点について語ることが「教育」なのか?ということがわからないような気がしました。
また、実際に今自分たちに識字率があり、ある程度働けているという状況があることで、そのことができない、という状況になったことがない、というのも「知識」や「教科」に対して、「よい教育を受けた」とは思えないところもあるだろう。
でも実は教育って結構そういう「気づいたらできていた」というところが大切なのかもしれないな、とも思う。
「よい教育を受けた」と思っていないけど、「社会にでて楽しくやれている」こと自体が、実は内容やプロセスはどうであれ、「よい教育を受けた」ということになるのかもしれない。
・「教育=先生」の構図が強い
だいたいよい教育かよくない教育か、と問われたときに、みなさんが話したのは、先生とのエピソードでした。
そうなってしまうのは、上に述べたように、おなじ「教育システム」しか受けていないから、そこでしか話せない、ということもあるだろうなと思いました。
もちろんそういう部分もあると思うけれど、「教育=先生」になるのだとすれば、その内容は関係なく、学校の先生である必要はなく、「どんな人と関わるのか?」というところが教育になってしまう。
もちろんそれで悪いわけではないと思う。もし大半の人がそう思っているのであれば、今のままの学習スタイルでいくのであれば、「先生を育てる」ことが「教育をよくする」ということにつながるわけだから、そこに目を向ける時間を増やす必要があるかもしれない。
ただ、聞いていてひどい先生も何人かいた。
困ったら、張り手をする先生。とにかく暴力的にクラスを押さえる先生などなど。
ただ、それにしても、今こうして話せて、生きていけてるわけだから、そこまで先生に影響されるというのも違うのかもしれない。
そういう不揃いの先生たちの中で成長してきても、それでも何とか社会でやっていけている、という事実はある。
もちろん、それが影響を及ぼし自ら命を絶った生徒もいるということは忘れてはいけない。
今回はいろいろな話しを聞きたいなと思って、ゆるめのタイトルにしたけれど、「教育」ということを語りたいなと思った時は、もう少し焦点を絞ったとしても、十分に話し合えるだろうな、と思った。
・ゆるぎないもの
何名かから、「かなりむかつく先生だったけど、それを見返すためにクラスが団結したり、自分が勉強したりした。」という話もでた。
今はあまりそういう話は少なくなっているんじゃないかと思う。
そこまで嫌われることに鈍感な人がいなくなったのかもしれない。
有る意味、そういう変な先生が先生をやっている、ということ自体が、実は雰囲気的に「いろんな生き方が許されている」という空気をだしていたのかもしれない。
「学校」というある意味画一的なところで、そういう変な先生がいる、ということが多様性を伝えていたのかもしれない。
そう考えると、今先生になっている人は、ある意味みんな「いい先生」であるような気がしないでもない。
しかし、そこにはあまり揺るぎないものがあるわけではなく、なんとなくその場に合わせて「いい先生」を演じてるのかもしれない。
もちろんそれが悪いわけではない。
ただ、子どもたちが成長していくにあたって、「先に生きている」ものとして、ある程度のマニアック的でもいいから、ゆるぎないものがあるのもいいのかもしれない。
などなど、なんとなく頭を巡ったことをとりあえず書き出してみた。
また、「悪い先生」とされている人により、ある一定数の犠牲者がいる、ということは忘れてはいけない。
今回は初めての試みだったので、こんな感じか~というところ。
もっと具体的なお題を提供することができると感じた。