「個」の物語に思いをはせる

教育とか手法で、なにかいいものがあると、「公教育にぜひ!」という意見をよく見かける。

しかし、そこに違和感がいつもある。

今回、青山新吾先生の著書を読んで、改めてその違和感がわかった。

そこに「個の物語」がないのだ。

子どもたち、もちろん大人もだだけれど、一人一人がそれぞれの物語を生きている。

そこにいる一人一人の物語のことを考えずに、ただ「いいもの」だから取り入れようとすることは、そこにいる一人一人の存在を見ていないということになるのだと思う。

尊敬の念に欠く。

だから嫌だったのだ。

もちろん、すべての子どもたちの物語と出会うことはできない。

しかし、そこに思いをはせることはできると思う。

 

これから推し進められるアクティブ・ラーニング。

大きく成長する子どももいるかもしれないけれど、それによって心をくじかれてしまう子どももいるのではないだろうか。

 

子どもたちへのメッセージのつまった黒板。

勇気をもらえる生徒も多々いるだろうけれど、そこには、それにうんざりする子どももいるのではないだろうか。

 

とにかく褒める。

きっとうれしい子どもたちもたくさんいるだろうけれど、それを重荷に感じてしまう生徒が少しはいるのではないだろうか。

 

教育のカタチの選択肢を増やす。

それによって心がゆるむ子どもたちもいるだろうけれど、逆に自分を否定してしまう子どももでてきてしまうのではないだろうか。

 

全員が感動し、勇気づけられる実践を目指すことを否定しているわけではない。

ただ、そこにはいつもそれぞれの物語を生きている生徒がいて、逆のことや違うことを感じる生徒がいるかもしれないということに目を向けること。

それが「尊敬の念を持つ」ということだと思う。

そして、その一人一人の物語を無視して、実践と結果の本質は見えないような気がする。

 

様々な実践があるなかで、おそらくその実践を広げていこうとする方は、「だれがやってもある程度の結果がでるものを」、という気概で向かわれていると思う。

しかし、そこには、実践者と相手の関係性がとても大きく影響しているということを作り手は忘れてはいけないと思うし、それを追実践していく人も、そのことは忘れてはいけないと思う。

 

「こういうときは、こうしたらいい。」というものはない。

もしそれを望むのであれば、自分でプログラミングしたロボットを相手にすればいい。

「こういうときは、(今の自分のできること、相手の今の状態を見て)何をしたらいいのだろう。」

そうやって地道に考えていくこと。試行錯誤していくこと。

面倒くさいかもしれないけれど、それこそが教育のおもしろさなのではないかと思う。

もし、それが面倒くさいならば、教育からは離れたほうがいいと思う。

 

青山先生の本はこちら。

 

これを書きながら思い出したのが多賀先生の本

どちらもぜひ読んでもらいたい。