どのような教育が「よい」教育か
第三章 どのような教育が「よい」教育か。
前回は、人間的欲望の本質とはなにか、よい社会とはなにか、というところまで。
今回は、
よい教育とは?
よい社会を実質化するためのものが「よい」教育。
各人の<自由>も社会の<自由の相互承認>も各人の一定の<教養=力能>がなければ、現実に実質化できない。
読み書き計算ができなければ、自由を著しく損なう。と書かれている。確かにそうかもしれないが、そう気づいたときに取り組めばいいのではないかとも思う。そう気づいたときに「取り組める環境、周りのつながり」そして、なによりも「できる!」という感覚を持っていることのほうが不可欠のような気がする。
ヘーゲルはこういった教養獲得過程は一種の「労働」である。としているらしいが、それはどうなんだろうと思う。
ただ、教育を通して<自由>になることができる、という点は確かにそうだな、と思う。
教育は「個のためか社会のためか」
もちろん答えは両方だろうと思うし、そう書いてある。
こういう二項対立的なものは、ほとんどがそういうことだと思う。
平等か選択の自由か。
どちらも大事だろうし、この本にもその「程度」が問題なのだ、ということ。
ただ、今までは一体なにが「よい」教育なのか?というところがあいまいなままだったので、その二項対立的図式に陥ってしまっていた。
今回の原理を持つならば、すべてはそのための実践理論であり、方法に過ぎない、ということになり、対立にはならない。
<教養=力能>とは何か
ここが一番のネックになるだろうと思う。
著者は、義務教育段階で保証されるべき<教養=力能>を、
「共通基礎教養」としている。
共通には2つの意味がある。
1・すべての子どもたちに共通に獲得を保証すべき基礎教養
2・将来どのような学業や職業に就いても、一定程度共通に必要とされる教養
1は分かるが、2はそれをどう規定するのかをしっかり議論しなければいけないと思う。
この「共通基礎教養」の本質を3つ
1・諸基礎知識
2・学び(探求)の方法
特に1,2については学力ということになる。
ここでも大切な事はバランス。ただ、背景には、「教え込むべきことは教え込む」というものがあり、それがかなり根強いだけに、この辺りもかなり議論が必要だと思う。著者は、それほど膨大かつ細かくなくていい、といっているが、実際はどこまでとするのか?というところは現場で話す必要があるだろう。
また、1,2は義務教育後に続く人生において、自らの教養を高められるものにつながらなければならない、としている。
このあたりは現代社会の在り方と密接につながっているので、ただ義務教育を変えただけではたどり着けないだろう。
子どもは子どもたちの世界の中で、大人は大人の世界のなかで、「今」を省みて、これから「よい」社会に向けて何ができるのかを考えることが大切だろう。
3・相互承認の感度(ルール感覚)
<ルール>が守れないところに、安心できる<自由>はない。
アーレントは、『私たちは社会的存在として「約束を守る」能力が必要である。』と言っているとのこと。
なぜならこれが、社会的な「許し」の条件だからだ、ということ。
今回は失敗してしまったかもしれないが、本来は、約束を守ることができると信じているからこそ、許せる、という流れ。
公教育の「正当性」の原理
それは、一般福祉。すべての人の「福祉=よき生」につながるかどうかで、その正当性は測られる。
ということで、これで「よい」教育とはなにか?という概念的なものが帰結した。
教育とは、
「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」
一人一人が生きたいように生きることができる、および、それぞれの生き方を承認することができる社会を実現するために教養や力能を身につけること。
そのための共通基礎教養を3つ
・諸基礎教養
・学び(探求)の方法
・相互承認の感度
「よい」「正当」とは、
<一般福祉に適う、さらにいれば、これを促進しうる教育>