どのような教育が「よい」教育か 第二章

どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

序章第一章

第二章 アポリア(問題の中の一見解明できそうにない行き詰まり)を解く

この章では、本のタイトルである『どのような教育が「よい」教育か』ということに対する答えを出すための方法について書いてある。

この問いを考えるときに、欲望論的アプローチをとる。

「一体あなたはどうしたいの?なにを欲しているの?」と問うことにより、その目的を明確化させ、そして、それを共有し、共通了解を持てるようにしていくということ。

これが優れている点は、「確認可能である」ということ。

どんな状況であれ、自分が「よい」と思ったことは相対的でもなく、絶対的でもない。しかも、それは否定できない。だからこそ共通了解にもっていけるのだということ。

 

ここを読んでいて、アドラー心理学の「目的論」を思い出した。

私がアドラー心理学を好きなところは、その行動が達成したい目的につながっている、という捉え方であることにより、確認可能である、というところだ。

ここでは、「共通了解」ということを目的にしているので、自分も相手もある程度手ごたえを感じられるようなものでないといけない。

そう考えると、筆者が考える「欲望相関性」に基づくのは納得。

 

そして、結局「どのような教育を欲するか?」は「どのような社会を欲するか」ということ。

この点についての考えや議論がもしかしたら少ないのかもしれない。

今の教育は、今ある社会に適合させるための教育であり、どのような社会を欲しているか?ということを考えることが少ないような気がしている。

 

筆者はこのようにまとめている。

「私たちはどのような生を欲するか、その人間的欲望の本質を解明し、その上で、すべての人のそのような欲望を最も十全に達成しうる社会的・教育的条件を探求する。」

 

そして、それぞれに対する批判的思考を行っている。

・本質を見極めることは可能か?→確かめ可能な共通本質を見出すことはできる。

ここでは、ヘーゲルを用いて「人間的欲望の本質は<自由>である」としている。

・本質論は真理主義か?→ここで語る本質論はあくまで確かめられるもの、ということで、絶対化にはなりえない。

・欲望論は利己主義か?→一般的に言う欲望は自分のため、ということに限られがちだけれども、それが進んでいくと、他者とうまくやっていきたいというところにもたどり着くものなので、利己主義にはならない。

 

次に、様々なアプローチと欲望論的アプローチを比較して、欲望論的アプローチが原理的に優位であることを示している。

1・道徳・義務的アプローチ・・・社会的不平等は不道徳であるから、正す必要がある。でも例えば不平等だったとしても、それはその人が欲するものによって違ってくるから、なんともいえない。

2・状態・事実論的アプローチ・・・事実をどう捉えるかは人それぞれ。それこそその人の欲望によって捉え方が違う。また、事実に基づいてすべて規範を決めてしまうと、悲劇的なことが起こり得る。

3・プラグマティックなアプローチ・・・その場その場で考えるスタイルなので、構想をつくるには弱い。

ということで欲望論的アプローチを採用。

 

「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化することが「よい」教育だ」と言えるということを証明するために、欲望論的アプローチを使っていく。

 

ということになる。

 

この様々なアプローチのところでは、なんだか懐かしい響きがたくさんでてきた。

以前MOOCで受講したハーバード大サンデル教授のJUSTICEで出てきたんだ!!

残念ながらあと5%で及第点だったのだけれど・・・こんなところでまた出くわすとは。人生には無駄はない(笑)

 

アドラー心理学をやっていて、これは心理学というよりも「教育哲学」だよな~なんて思っていたのが、5年くらい前・・・

こうやって学びがつながるとおもしろい。

 

さて、がんばって読み続けていこう。