大人と子どもが共に学ぶ意義

「子どもと大人は対等である。」

というと、認めたくないオーラを発する人がいる。

そして、そういうオーラを発しないまでも、なんとなくそう思っている人がいる。

こんな言葉を発する人たちだ。

「子どもは導いてやらなきゃ」

「適切な環境を与えなきゃ」

「教えてあげたい」

といった上から目線を発する大人たち。(実は大人だけではなかったりするのだけれど、それはまたいずれ)

 

また、結構多くの大人が、子どものイメージ像を自分が子どもだったころのイメージ像と比べて判断したり、「なんとなくこんなもんでしょう。」というマスコミや聞いた話や自分が知っている子どもの情報だけを元に勝手なイメージ像で決めつけてしまっていると感じる。

また、子どもに対する判断を、学校の勉強の出来不出来で判断してしまっていることがある。

 

確かに大人と子どもは、できることは違う。もちろん役割だって違う。

だからといって、そこに上下関係を入れ込む必要はない。

そういった上から目線などを払拭してもらうには、その人が想定している子どものイメージ像を塗り替えるような経験をしてもらうこと。

そのためには、今回の「ミライを生き抜くチカラ」のような、答えのないものについて対話をすることがひとつの方法だと思っている。

 

何かを教えようとせずに、「対話をする」というプロセスを通すと、一人一人の違いを感じることができる。

子どもは子どもなりに考え、大人も大人なりに考える。

そして、小学生高学年にもなれば、大人が考えるようなことはすでに考えられるということに、大人は気づく。

そして、年齢を問わず、子どもには子どもならではの視点があることにも気づく。

要するに、そこにはただ「考え方、ものの見方が違う人が存在している」というだけであり、そこに優劣はないということを感じることができる。

 

今回のような内容で「大人」と「子ども」が共に学ぶ意義は、この「対等である」ということを感じる機会になりえるということだと考えている。