「もし、過ちを犯す自由がないのならば、自由を持つ価値はない。」

子どもに何かを任せるとき、注意しなければいけないことが、その選択の結果に対しての上から目線の評価や批判をしないことだと思っている。

 

自己決定できるようになってもらうには、自己決定の経験をたくさん積む必要がある。

たくさんそういった経験を積んでいけば、当然そこには傍(特に大人)から見たら失敗という結果もある。

しかし、それを受容しなければ、自己決定に対する挑戦意欲は減退する。

 

「いいんじゃない?自分で決めれば。」といっておいて、子どもが決めたことが、自分の予想外のこと、あるいは、自分が今までやってみて失敗したと思っていたようなことだったりしたときに、受容できるかどうか。

 

そして、こちらの思った通りに子どもが失敗したとき、つい、「ほら、いわんこっちゃない。」という思いを伝えてしまってはいないだろうか。

わからないでもないけれど、それをやってしまうと、子どもの勇気はくじかれる。

そして、子どものなかで、自己決定することは、非難され、評価される「危険」なことだと記憶されてしまう可能性がある。

そして、「自分で決める」ということをやめていく。

 

確かに大人がそこで口を出せば、大人が「失敗」だと捉えることは起こらないかもしれない。

でも、その「失敗」は本当に子どもにとって「失敗」なんだろうか。

そういった大人目線での「失敗」を避けようとすることで、子どもにとっての大切な自己決定経験を奪ってしまってしまうのではないか、と思う。

 

自己決定感を育むことと、失敗(そう大人が思っているにすぎないのだけど)を受容することはセット。

「もし、過ちを犯す自由がないのならば、自由を持つ価値はない。」

こんなガンジーの言葉を見て、そんなことを思った。