「このようであったからこのようでなければならない」の思考

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探求の共同体 ─考えるための教室─

第二章 思考教育の方法論

批判的思考の運動の始まり

1980年ごろ、それまでのアメリカの教育にかなり批判が高まった。

立場が高い人が、現場の教師を批判すれば、現場の教師はその批判をかわすために、学校のせいではなく、家庭環境やテレビ、そして、勉強を就職のためにしか利用しないという社会が悪いという反撃をした。

ただ、ここでの論争は、結局はいかに「知識」を注ぎ込むかという前提が同じだった。

 

いかに今いる場所に到達したか

認知科学者、プログラム開発者、認知スキルの教育に関わっている人々が一同に会し、「思考力の養成」がダイジだという結論を出した。

その後、ただ考えるのではなく、「批判的に」考えることが大切だという意見がでてきた。

 

批判的思考の由来

様々な関わった学者の名前が掲載。

デューイとデューイ主義者たち

日常の問題解決ための思考の手続きが、一旦科学的探究と結び付けられると、それが規範的なものになってしまい、

「このようである」→「このようであったからこのようでなければならない」という移行が起こる。

だからこそ、常にその根源に対して反省的でなければならない。

そうすることが、知的硬直からの解放。

さらに、教育における思考の重要性が強調され、民主主義と教育を結び付けた。

ただし、卓越した思考とは哲学的思考であり、民主主義で必要とされるところの科学的な方法論とは別物である。

だとすると、「よい思考」をするにはどちらの道を選んだらいいのか?という疑問が残った。

1962年 エニスさん

批判的思考「私たちが何を信じ、何をすればよいかを決める手助けをしてくれる筋の通った合理的思な思考」と定義した。

デューイさん

批判としての哲学という考えを強く擁護。

 

感想

どのようにして批判的思考にたどり着くのかというながれが、今までの歴史とそれに関わった人物や機関の名前とともに紹介。

まだ実践にどのように結びつけるかという内容ではない。

ただ、1980年に起こった教育界での論争は、今の日本にも当てはまるような気がする。

「知識だけ覚えてもしょうがないんだ!」「もっと主体的に!」といくら有識者が行っても、現場では、

「じゃぁ学校で学ぶことなしでどうやって社会で生きていくのだ!」と反論。

そして、それがうまくいっていないのは、スマホやゲームがあったり、家庭教育が不十分だからだ、と。

そして、未だにこの「知識注入前提」は日本では本質的に批判はされていないし、それに代わる教育の提示もはっきりとはされていない気がする。

あくまで、科学的探究「このようであったからこのようでなえればならない」の思考こそが、教育では唯一大切なこと、くらいの勢いだ。

果たして、これが国として転換されるのはいつになるのか・・・

とにかくまずはそこに気づいた人たちが始めるのがベターだろう。

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