今「幸せの戦後史」という本を読んでいる。
そのなかで、戦後復興が終わり1950年代くらいから徐々に現実と理想のギャップがでてきていると書かれていた。
そして、その流れのなかで、1980年代くらいから「おたく」という自分の世界のなかに自由を見つける人が増えてきたと。
でも、それは虚構ではないかという投げかけもでてきていた。
そして、今、社会の縮図ともいわれる学校の状態を観ていると、自分のなかにだけにあった虚構が、現実に這い出してきて、凌駕している気がする。
学校に行くと、そこでのキャラがある。
その場を創り上げるために自分の役割を演じる。
その設定を崩さないようにやり過ごす。
これはもう虚構の世界のような気がする。
そして、自分が本当の心だと思っているものをSNSなどで吐き出す。
でもそれすら本当の自分かどうか分からない。
これまた虚構のなかでのやりとりになりえる。
こうなると、いったいどこに現実を置けばいいのかなって思ってしますのも仕方ないかもしれない。
もちろん場所や相手によって自分の対応が変わるのは自然だと思う。
しかし、必要以上にその場に合わせて、自分の気持ちや態度を覆い隠してしまうほどのキャラづくりは、もう現実を通り越している気がする。
でも、それもその人なりの対処法なのか。
やりたいことはなに?とやらなければいけないことが次から次へとやってくる中で問われ、
選ぶことができないのに、主体的になれと言われ、
みんな違ってみんないい、と習うのに、実際はみんなといっしょじゃないと叱られ、
考える空白もないのに、考えろと言われる。
そりゃぁもうそれを虚構として捉えることがひとつの対処法にもなるな、と思ったりする。
まぁそうなると現実はなんなのか?ということになるわけで。
人が人である条件として、人がいないと人になれないわけで。
まずは人と対話する、ということが現実なのかな?
あぁとりとめないブログ(笑)