教えない教育

先日ご挨拶させていただいた井上淳之典さんが実践されている「らくだメソッド」

その開発者である平井雷太さんの本

「見えない教育 教えない教育」

初版は1997年。当時平井さんは40代後半。私は22歳。カナダにいたときだ。安室奈美恵がSAMと結婚したときだ。

 

第一章では、学校とは、教育とは、そして、ご自身の開発されたらくだ教育とは、ということについて再考している内容。

平井さんが30代~40代にかけて考えたことや詩が織り交ぜてある内容。

今自分がやろうとしていること(どこが悪いとかではなくて、みんなで考えようよ!)という視点から見ると、かなり学校教育に対して批判的であり、過激な内容だと感じた。

しかし、よくよく読んでみると、それは自分の考えを浮き上がらせるための反発力を創り出すためだったように感じた。

これだけの強い考え、想いがあるからこそ、「ではどうするんだ?!」ということで、らくだ教育につながったのかなと感じた。

 

第二章では、「教えない教育」ということで、らくだメソッドの考え方について細かく書いてある。

究極の「自学自習」を追及して、そのためにはなにが重要なのかということを考え抜いた結果がらくだ教育。

日頃私が実践していること、考えていることとたくさんの共通項があった。

・「わかる」より「できる」を重視

・採点は自分(こども)

・問題が起こることが大事 などなど。(自学自習について考えている人は、それぞれもっと深く書いてあるのでぜひ読んでみて。)

これからの塾での取り組み方に参考になるところも多々あった。

 

このように、とことん自学自習を追及したらくだ教育には魅力を感じる。

きっと実際に取り組んだら、間違いなくさらにその深さを感じることになると思う。

 

第三章は、考現学ということについて。

はじめて聞いた言葉だった。今を考えるという学問。

日々の出来事で、思ったことを公開を前提に書く。

当時はまだインターネットが普及し始めていて、ブログもなかった時代。(よくよく考えれば、現代は「考現学」真っ盛りなのかもしれない。)

この第三章では、その考現学に対する取り組みやそのなかで行われたやり取りが書かれている。

 

エピローグでは、モンテッソーリの実践者がらくだ教育との共通項を見出し、これからの教育について考察してあった。

 

本のなかで、何度も「ニュースクール」という言葉がでてきた。

この本が出版されてから20年。

現在平井さんからはどのような景色に見えているのか聞いてみたい。

最後に本書より抜粋

 

新・教育者宣言

人を教育によって変えられると思っている人は

教育者ではない

この子には私が必要だと思い込ませて

あなたのおかげで今があると思い込ませて

人の心をからめとっていく人も教育者ではない

人から感謝され尊敬される人は教育者ではないのだ

教育者とは、いついかなる場所に立ったとしても

そこに育ちたいと思っている人がいたとき

その人が何々ができる、何々ができないと無関係に

その人が潜在的にしたいと思っていることを

スッと提案できる人なのだ

相手がその提案にのらなくてもなんの不満も残らない

相手が提案にのって

何かができたとしても決して恩を売らない

たまたま、その人が勝手にその提案にのっただけ

私と無関係と心底思える人が教育者だ

そんな人がいる場所には主従関係も奴隷関係もない

似た者同士で群れることもない、セクトもできない

時間と空間を越えて、個と個の関係だけができていく (96.2.25)