大切なもの
赤坂先生の第一信
この本の前半は若手教師の学びについて。
それに対してここでは2つ。
「若手教師」という中に、年長者の傲りや上から目線を感じてしまう。経験=実力ではない。
そして、
情報が簡単に手に入ってしまうことによる、「大切なもの」の欠落
といったところ。
「若手教師」という言葉に感じる違和感について思うところは、この構図が大人と子どもにも当てはまると考える。
「子ども」=未熟、無力という意識を持っている。もちろんそんなことをわざわざ思っているわけではないけれど、そういうものだと思い込んでいるだろうなと感じることが多々ある。
これは、私からみれば、当然のことを、あたかも素晴らしいことのように言う大人たち。
たとえば、
ツクルスクールにゲストが来ることがある。
彼らは自分で料理を作る。そして、そこそこおいしい。
それを食べる大人。
「おいし~ すごいね~!」
この「すごいね~」という言葉の裏に、「あなたにはそんなことができないと思っていたよ。」という言葉が隠れているように思えることがある。
もちろん他意はない。本人にすれば、それが当たり前なのだから、他意なんて持ちようはない。
いやいやいや、彼らは毎回昼食作ってますからね。すごいとかそういう話じゃないですよね。
「うちの子には出来ないだろうな~」という言葉も。
ここに知らず知らずのうちに子どもは大人よりも劣っているというマインドがあるように思える。
そして、その限界設定マインドが子どもの行動を抑制することも。
もう一例。
瀬戸で行われているキミチャレ。という事業がある。
瀬戸市の小中学生が自分のやりたいことに自分の力で取り組む。「今日からキミもチャレンジャー」略して、キミチャレ。
大人の想定を子どもたちは軽く超えていく。
大人からの感想。「ここまでできるとは思わなかった。」「すごい行動力ですね~」
明らかに子どもの力を見くびっていると感じるときがある。
知らない所へ電話かけることだって、バスに乗ることだって、何回も失敗してチャレンジすることだって、子どもたちはできるわ!!
って思ったりする。
「大人=いろいろ分かっている、いろいろできる。子ども=あんまり分かってない、できないことが多い」という偏見を感じることがまだまだある。
確かに今までの社会であったのならば、百歩譲ってそうだったかもしれないが、これからの社会はだれも踏み入れたことのない時代。どっちがどっちという話ではなく、お互いがみなチャレンジャーなんだという気持ちで関わっていくことが大事だと私は思っている。
私自身を振り返ってみると、子どもの持っている力に対しての信頼はある。絶対的にある。なんで?と聞かれても、理由なんかない。
信頼しているといったら、信頼している。ただそれだけ。
もちろん技術的ところも思考的なところも子どもだからできないこともある。でもそれは力がないということではない。
逆に、大人だからこそできていないところもある。でも、それはもう一生力がつかないというわけではない。
だからお互いが協力しながら取り組むことがより一層大事になってくるのだと思う。
そして、一番そうありたいと思っているのは自分自身に対してなのだと思う。
そのために自分は成長していきたい。他者を信頼するために、まずは自分の力を信じる、信頼するということを。
後半は、「大切なもの」の欠落。
インターネットにより、様々な情報がすぐに手に入る世の中になった。
情報を得ることで、すぐに解決できることも増えた。
しかし、その情報を使い捨てているように思うことがある。
その人が発する言葉や情報には、様々な思いがその下にはあるはず。
そこに思いをはせないことが多いのかもしれない。
テレビは娯楽なのだから、いちいちとやかくいっても仕方ないが、こんな風に言ってくれた人がいて、それでスッとしました!というような番組がある。
でも、そんなステキな言葉をいうまでには、様々な思いや経験があったはずだと思う。
もちろんその言葉を聞いた瞬間「すごいな~この人」って思うこともあると思うけれど、スカッとした!というその感情よって、その思いはどこへやらいってしまうじゃないか。
結局、思考することなく終わってしまい、ただの情報として終わってしまう感覚。
自分は何を思っていて、何を感じて、何を感じていなくて。そんな思考のなかから、自分が大切にしているものってなんなんだろうかって考える。それはきっと「学び」には欠かせないことだと思う。
感動して終わり、揺さぶられて終わり、ではなく、なぜ感動したのか、何に揺さぶられたんかということを振り返る時間を大切にしたい。
私自身は、なにか、お~いいな~と思うと、それを遡ってみたいと思うことが多い。
昔からのような気がする。
好きなアーティストができると、そのアーティストの憧れていた人はだれだったのか。で、その人は、どんな人に影響を受けたのか?そんなことが気になる中学生だった。
それは、今もそうかもしれない。なぜこの人はこのような考えになったのだろうか?何を目指しているのだろうか?と考えることが多い。