無意識に学んでしまうことの怖さ

ヒドゥン・カリキュラム

日本語にすれば、「隠された学習内容・学習課程」というところなのかな。

なにが隠されているのかというと・・・

なんだろう(苦笑)

本人が学ぼうと思っていなくても学んでしまうこと?

たとえば、サッカーを習っていたとして、本人はサッカーがうまくなりたい!と思って練習しているんだけれど、サッカーを学んでいるうちに、チームプレイの大切さを学んでいく?とか。

ただ、これはまだそれほど隠されているとはいえない。

団体スポーツの目的として、そういったところはある程度多くの人が分かっていることだろうから。

 

もっとだれも気付かないようなこと。

教えるつもりはないのに、教えてしまっていること。

「もっとしっかり走らないと、うまくならないぞ!!(怒号)」

ここの目標は、走力をつけさせること、うまくさせること。

しかし、ここでは、「人になにかをさせるときには怒鳴ればいい。」

ということを言われた方が無自覚的に学んでしまっている可能性があるということ。

これは、怒鳴っている人も怒鳴られている人もどちらもそんな意図はない。

その学ぶ内容が行為者、被行為者の両方の意識にはない。隠されてしまっている状態。

これがヒドゥン・カリキュラムということかな。

 

そして、やっかいなことに、このヒドゥン・カリキュラムはかなり根強く残るような気がしている。

こういったことを考えるときによく思い出すのが、7つの習慣の「Win Winを考える」の章にある事例。

ある会社の社長は社員が自分のことしか考えないと困っている。

協力したほうがいいということは分かっているし、実際にそのような内容を社員に繰り返し伝えている。

そして、熱く協力の大切さを語ったその背後には、社員を馬に見立てて、それぞれの売上をグラフ化して、競い合わせるグラフが掲げてあった・・・

もちろん社長が教えたいことは協力だろうし、社員だって、それを言われているわけだから、協力の大切さを教えられている課程にある、と思っているだろう。

しかし、そこから社員が強く学ぶことは、協力ではなく、競争。

自分ひとりが勝つことで、自分ひとりが褒美をもらえるということ。

おそらく私だったら、この場面で学ぶことは協力:競争=1:9くらい、いや0:10かもしれない。

それくらいここでのヒドゥン・カリキュラムは強い力を持っている。

 

このヒドゥン・カリキュラム。

もちろん建設的な面もある。それはまだいいけれど、非建設的な面には気を付けなければならない。

とりあえず、今の学校教育システムにおいて、非建設的なことを学ばせる可能性があるだろうということをいくつか挙げてみる。

 

「どんどん身につけることが大切」

これはないよりあったほうがいい発想につながるような気がする。

そうなると、稼ぎだしてからも、少しでも稼ぐことが大切、もっともっと!というマインドになる気がする。

成長著しい国ならまだしも、これから今までのような爆発的な成長が見込まれないなかでは、このような考えをもって生きることが幸せなのだろうかと思ってしまう。

 

「言われたことをその通りやることが大切」

別に悪いことではないと思うけれど、そもそもこういったヒドゥン・カリキュラムがあるのに、さらにそこから輪をかけたような関わりをしていたら、本当に杓子定規にしか物事を考えられなくなってしまう可能性がある。

 

「課題は与えらえれるもの」

自分はなにも考えなくても、常に課題は降ってくる。しかし、これからの社会では、明確な課題を解くということは減り、その課題をいかに自分で見つけられるか、ということが問われることが多くなっていく。

 

「勉強ができる人はすごい人」

これは逆のヒドゥン・カリキュラムも成り立つ。勉強ができな人はだめな人。学校の勉強だけで人を判断してしまう。さらに自分自身の可能性まで踏みつけてしまう可能性がある。

 

「苦手なものをつくってはいけない」

苦手なものがあれば、誰かに助けてもらえばいい。自分でなんとかしなければいけない、ということはそれほどない。

だれだって苦手なことはあるものだから、その克服に時間をかけるなら、その課題をだれかといっしょに克服していこうということに時間をかけたほうがいいように思う。

 

「わからなくても、我慢しておけば、そのうち過ぎ去る」

自分が違う意見や思いがあったとしても、いったところでどうしようもないし、だまっておけばいいや。

そんな考え方を持つようになってしまう。

などなど・・・

 

いずれもシステムとしてはどうしようもないことだと思う。

だから、大切な事は「自分がどういうシステムのなかにいるのか?」ということや、「自分の行為は相手になにを伝えうるか?」ということを時々点検することだと思う。

そして、その上でどのようなことを伝えていったらいいのか?と考えること。

 

と、こんなことを考えていたら、これってメタ認知能力だよな、と。

ちょうど堀先生の本にも書いてあったし、

堀 裕嗣―エピソードで語る教師力の極意

上田信行先生の本にも書いてあった。

プレイフル・シンキング

(上田先生の記事はこちら

お~これは、ダブルループ学習のことか!とか。

 

ちなみに学校教育のなかでのヒドゥン・カリキュラムについては、こちらを読んでみることをお勧めします。