子どもや人になにかよかれと思って体験させようと思ったとき、気を付けたいことは、そこにはマイナスのことも起こり得るということを考えておくということ。
親が「きっと楽しいだろう」とおもってやらせても、子どもは楽しまないかもしれない。
楽しくなかった、というくらいならまだいいかもしれない。
それによって、嫌いになってしまうこともあるということ。
もちろんただ経験、体験をスルーしていくときもあるだろうけれど、それはだれにもわからない。
学校が、最低限学びの機会を与えられるところだ、と思っていてはいけないということ。
それは、親も教師も。
学びの楽しさを奪ってしまう可能性があるところでもあるということ。
もしフラットにその子どもが、たとえば「英語」に出会っていたとしたら、好きになっていたかもしれないのに、よかれと思ってやらせたことにより、嫌いになってしまうこともありえるということ。
なにかを与えるということは、基本的には、同時になにかをもたらすのだということを考えておきたい。
もちろんそれが子どもが偶然に出会ったことにより嫌いになってしまうこともあるかもしれない。
でも、その場合は、その子どもが責任を負えばいいだけ。
人が良かれと思ってやったことはそうはいかない。
まぁたとえそうだとしても、責任を取るのは本人なのだけれど。
どんな事柄にも完璧というものがないのだろうし、人を介して学ぶ場合は、その内容以外にもその人間関係の状態も大きく関係する。
だからこそ、子どもに強制的に学びと出会わせる教師は、とても慎重にならなくてはいけないし、その責任を背負って授業をするべきだと思っている。
「学ぶこと」を嫌いにさせることがどれくらい罪深いかを認識しておかなければならなないと思う。
これは私のやっていたフリースクールもそうだと思う。
ここでは、ある意味強制的に「自由」「自己決定」に出会わせているということになる。
もしかしたら、それをつらいと感じる子どもがいるかもしれない。
「自分で決めるなんて、面倒くさいし、疲れる」と思ってしまう生徒もいるかもしれない、と思っておくということ。
もちろんこれだって、最終的に決めるのは本人しかないのだから、こちら側としては、それをちゃんと認識しておくことしかできないのだが。
よかれと思って子どもになにかをやらせる機会を与えたりするときに、実はそこにはそれによって嫌いになってしまうことがある、ということを想定したうえで与える必要があるということを心にとめておきたい。