今日は勇気づけて躾ける―子どもを自立させる子育ての原理と方法の読書会でした。
今回はP101~111まで。
毎回なんとなくきりのいいところで、そこまでで気になったところ、感じたところ、などを一人ずつ発表してもらっています。
抜粋なので、ここだけ読んで本の判断は無しで。
「自分から進んで違った行動を取るように仕向けさえすればいいのだということです。」(P102)
言葉が「仕向ける」ということになっているので、ちょっときつい印象を私は受けました。もともとの英語を知りたいところです。
おそらく、「今までやってみてうまくいかないのだったら、それを続けるのではなく思い切ってほかのやり方にチャレンジをしてみたくなるモチベーションが湧くような関わりをすればよいだけで、そのために「何をしたほうがいい」とか「何はだめだ」というような具体的なアドバイスはいらないんじゃないかな。」という感じですかね。その「いい」とか「悪い」っていう判断は、親の判断にしかすぎないわけだから、その場にいる本人が自分で考えて、チャレンジしていく、という習慣を身につけらえれるような勇気づけをすることが大事なのだろうと思います。
「子どもの下した選択や決断に、私たち大人が責任を感じる必要はありません。それはあくまでも子ども自身の責任なのですから。これもまた平等の一部であるといえるでしょう。」(P103)
もちろん何にも伝えず、なんでもかんでも子どもにやらせて、「それはあなたの責任だからね」というのは違うところはあると思います。
自分の思いや自分がした経験、そのほかの自分が役に立つだろうと思う知識は伝えればいいと思うのですが、その結果、子どもがどうするかは子どもの責任だということです。
もし、それが子どもにできないと思っているならば、それは子どものことを見下しているということになりますよね、ということでしょうか。
「ほとんどの親は、またほとんどの場合、それぞれの場面でなすべきこと、してはいけないことを知るだけで十分でしょう。」(P103)
まったく知らないってこともないと思うんですよね。もちろんできるできないもあると思いますが、知識として知っておく必要はあるでしょうね。
緊張してはいけない場面で、「緊張するな~!!」と呼び掛けてはいけない、ということのように。
「子どもの行動のもととなっている原動力をもっと広く洞察することが必要とする場合もあります。」(P104)
どうしても目の前の子どもの行動に目を取られてしまい、そのことでいろいろと判断してしまうのでしょうけれど、なかにはそれでは不十分で、いつも以上に様々な角度から子どもの行動を捉え直す必要があるということだと思います。
「おもちゃ売り場でおもちゃを買ってもらえなくて泣いている」→「買ってもらえないから泣いている」
いや、まてよ。この子は泣いているけど、買ってもらうために泣いているんじゃなかろうか。という感じですかね。
そんなに広い洞察という感じではないかもしれませんが、一つの視点の広がりはありますかね。
「良き指導者は、後からついてきた者がその場の状況に適した行動を取れるようにうまくリードしていきます。親はそのような存在であるべきなのです。」(P109)
指導者がやった通りではなくて、自分で考えて、判断して、その場に適した(ここでいう「適した」は「建設的な」というところでしょうし、なにに向かって建設的?というところであれば、共同体感覚の育成に向けて建設的な、ということになると考えています。)
行動を取れるように関わっていくということでしょう。
これからの時代は日本中のだれも経験したことのない時代に入っていくわけですから、そのように関わるのは親の責務のような気がしています。
「私たちが彼らを自分の行動を自分で決められる対等な人間として尊重してやれば、子どもはきっと大人の指導に従うはずです。」(P109)
逆に考えると、子どもが自分の行動は自分で決められないでしょうと子どものを下に見ていれば、子どもは大人の指導にきっと従わないだろう、ということになるでしょうか。
確かに分かる気がします。相手のことを下に見れば見るほど、どんどん相手は行動しなくなる。
これは大人も同じだな、と。
「私たちはしばしば、教育者としての立場を忘れて人間として振る舞うことがあります。そんなときには自分の弱さを笑い飛ばし、構わずに前向きな努力をひたすら続けていけばいいのです。また、私たちは不完全であることを認める勇気を持つことも必要です。子どもがひっきりなしに攻撃的な態度を示してくるなら、時には彼を叩きのめして束の間の勝利を味わってもいいのですし、それに対して、あとで後ろめたさを感じる必要はまったくありません。私たちには、のんびりと罪の意識などに酔っている余裕はないのですから。(P110)
ここは私が選んだところですが、やっぱりね、怒ったりしてしまうこともあると思うんですよね。仕方ないと思いますよ。
人間だもの(笑)
相手を支配したい気持ちもありますよ。
人間だもの(笑)
まぁやっちまったら、ここに書いてあるように、そんな自分を笑い飛ばしていけばいいんですよ。そして、前向きな努力に取り組めばいいと思うんですよ。
悪かったな~と思ったら、すぐに謝ればいいんだと思うんです。
そうやって、失敗を見せないことが大事なんじゃなくて、大人だって失敗するけれど、立ち上がって、また自分の向かいたい方向へ努力していくんだ、という姿勢を見せることが大事なんだと思います。
ただ、その支配の快感に溺れないようにしないとね・・・
「ええ、たしかにあの子を叩いたわ。あの子がそれを望んだからよ。指導方法として有効でないことはよくわかっているけど、でもお陰ですっきりしたわ。さあ、ばらばらになった破片を拾い集めて、また一からやり直しだわ。」(P111)
これは叩いたあとの大人の本音、として書かれています。この本音を無視してはいけないということです。
自分の気持ちに向き合って、その上で次に向かうということで、自分を信じられる、ということです。
ちなみに、これを隠している気持ちの例も書かれていました。
「そう、私はあの子を叩いたわ。悪いと思ってるの。でも後悔しているのだから、私は本当に悪い親ではないはずよ。」
1960年代に書かれた本なので、まだお尻を叩くなどの体罰のシーンが多いですが、少し場面を置きかえれば、いくらでも現代と同様のことが起こっているとすぐに分かります。
不完全であることを認めつつも、チェンジ&チャレンジ!(海老名・・・)
チャレンジ&チェンジのような気もするけど・・・