思考力の強化を阻む障害物

思考のための教育の障害物と誤解

思考力の強化をはばむ概念上の障害物

思考の本質についての考え方の不一致

おもに問題解決を求める思考の捉え方 対 おもに問題探索を求める思考の捉え方

前者が自然科学。 後者が人文科学。

果たして問題を思うように解決することができるのか?と思うと、そうそうすっきりいくことはないのかもしれない。

問題の向こうにまた問題が待っている。だから、問題解決を求めた思考だと、その瞬間で思考は終わり、ということになってしまい、継続的な思考力の強化にはつながらない。

これが正しい!と思った瞬間に、それに対しての疑問の余地を持てるような思考回路を鍛えておくことが、これからの答えのない時代には大切なのだと思う。

 

思考の主たる目的は、信念を創り出すことだと考えること 対 信念は単なる心理学的な最終状態にすぎず、認識論上の特別な価値はない。したがって探求の過程を強調すること。

信念というのは、これ以上の根拠を付け加える必要はないという心理状態を指しているので、前者のような捉え方をしてしまうと、思考はそこでストップしてしまうということになる。思考の教育を考えると後者の捉え方。

生徒たちが考えるようになるような課題を設定すること 対 生徒たちはすでに考えているが、よりよく考えることを学ぶ必要があるとみなすこと。

前者であると、思考の過程が終了してしまうし、たとえばこちらが想定したような思考の流れを生徒がした場合、思考力がついたと勘違いしてしまう。それはただの思考を移植しただけで、それだけで思考の質が高まったと考えるのは浅はか。

思考のための教育において、抽象性より具体性が優先させる 対 具体性より抽象性が優先される

この前提として、幼児期は具体性が優先されるべき、高等教育では抽象性が優先されるべきだという考えがあるが、どうやらこれらの前提は確かな根拠はないらしい。そもそもそうやって決めつけてしまうこと自体が子どもたちの成長を妨げてしまうのかもしれない。

子どもによって、発達は凸凹がある。そう考えると児童だとしても、ある程度抽象的な事柄を考えることができるかもしれないし、高等教育を受けているけれども、ある程度具体的な思考が必要なこともある。

ここはわざわざ対立項にして、思考を促している感じ。

私が思うのは、抽象と具体をいったりきたりすることが思考であり、その抽象的なことに含まれる様々な具体例が思考の橋渡しをしているのだろうなぁと思っている。