社会意識としての自己責任論

引き続き、「幸せ」の戦後史

第1部 壊れかけた労働社会

第3章 職場シンドロームの出現

構造改革の掛け声によって、企業も体質改善に乗り出す。

結果、労働分配率が80%から60%にまで下げられた。企業としては改善成功。

それによって失われたものがある。

企業の中間共同体がなくなった。

職場は職責を全うするという役割だけではなく、知識の交換や共有、創造、そして、学びの場でもあった。

この後者に値する雰囲気がなくなった。

感覚として「奥行き」がなくなった。

その理由は業務負荷が高まったことや余裕がなくなったことが挙げられるが、この著者は違った視点。

構造改革により、育てるべき若者を失った中間共同体が衰退したことにより、職場の器が小さくなってしまった。

その結果、2005年以降、メンタルヘルスの悪化が取り上げられた。

 

2008年に出版された「不機嫌な職場」(高橋克徳・河合太助・渡部幹)より引用

 

”職場がおかしい。何か冷たい感じのする職場、ギスギスした職場が増えている。

会話が少なく、互いに関心を持たずに、黙々と仕事をこなしていく。

深夜残業が続く人や切羽詰った人がいても、気がつかないのか、気づかないふりをしているのか、お互いに声を掛けようともしない。

そんな状況の中で、まじめな人、自分でどうにかしなければと責任感の強い人からつぶれていく。

精神的あるいは体力的に追い込まれ、休職や退職する人まででてきてしまっている。

何かおかしい。”

 

これを成果主義や終身雇用の結果だとしているが、著者は違う。

その職場の空間の意味がなくなったから。

そして、その空間の雰囲気の特徴としては、

自分のハンドリングできる範囲からでない。

目の前のことだけやる、あるいは回避する

展望ないまま大きな負担を背負ってしまう。

つまり、職場と自分の関係がよくわからなくなったということ。

 

不可解な早期離職

雇用が不安定にも関わらず、7・5・3転職が増えている。

これにもミスマッチ説や年功制残存説などの会社側の視点があるが、そうではなく、若年層の期待と現実のギャップの大きさにあるとしている。

2000年~2012年にかけて「転職は、しないにこしたことがない」「今の会社に一生勤めようと思っている」というアンケートに対しての回答は右肩上がり。

前者は20%から60%に、後者は10%から30%に。

 

これと合わせた資料として、「自分にはかなえたい夢がある」「社内で出世するより起業して独立したい」

前者は、2000年~2012年にかけて、60&以上をずっとキープしとり、最後の5年は70%を越えている。

後者は、2003年30%を越えていたが、2012年は12%程度となっている。

 

これらを合わせて著者は、「自分の夢を会社にいながら、会社で叶えたい」という期待としている。

こうなってしまうのは「あなたのやりたいことは何ですか?」スタイルの今の就活にも責任はあるとしつつも、

実は若者も大半はそれが難しいという現実に対して「知らないふり」をしているだけだろうということ。

そして、さらに多少できのよい学生は、「自分はそうならない」「自分だけは別なのだ」という思いも持ちやすいと聞いたことがあるとしている。

期待のイリュージョンが、現実の認識にふたをかぶせてしまっている。

そして、現実に直面したときのギャップが早期離職に走らせているのではないか?

 

では、その過剰な期待の本音とは?

結局は、雇用ポートフォリオの「長期蓄積能力活用型グループ」という狭き門に入りたい!

そして、その特権に浸りたい。だって、がんばってきたんだもん!という権利意識。

その結果、職場でせっかくに手にした特権(正社員)を奪われそうになると、不機嫌で不可解な職場が生み出される。

 

新しい社会意識「自己責任論」

そして、ここに入れなかった層を納得させる理論として、「自己責任」という言葉が使われた。

90年代後半に、日本社会は構造的な変容を遂げた。

それにより「努力してもよりよい明日を手に入れることができるわけではない」という苦い事実を飲み込まざるをえなくなった。

なんとなく「誰もが成功のために努力する機会に巡り合える」という機会均等論が維持できないと感じていて、それでもなんとかここにしがみつこうとして、

「誰もがチャンスとリスクを含む「選択肢」に遭遇する」という変換をした。

ここで一気に自己責任の度合いが増した。

この「自己責任論」は90年代に生まれた新しい《社会意識》だとしている。

 

感想

2000年に就職をした自分としては、ドンピシャな感覚がある。

職場はあくまで能力を発揮する場であり、社員はすべて競争相手(ここでいう長期蓄積能力活用型グループ)という感覚を持っていた。

企業はいろいろいうけど、結局社員の尻を拭くつもりなんてさらさらないんだろうと思っていた。

幸いにも私の世代は、今ほど「自分の夢」や「やりたいこと」を煽動するような風潮がなかったような気がする。

とにかくできることをやって成長していくことが最優先、と考えていた。

そして、ここでいう「長期蓄積能力グループ」の現実と自分が思う現場とのはなはだしいかい離により、そのコースから外れた。

では、学生のときそれを知らないふりをしていたのかというと、そうではなかったと思う。

本当に知らなかったのだ。会社が何なのかということは本当にわからなかった。

そして、出した結論が転職だった。

そう考えるとこの本に書かれていることをなぞったかのように、ある程度自分の歩みがあるな、と感じた。

そして、その自分の背後にはいつも「自己責任」という言葉は張り付いていた。

私は幸いにもその「自己責任」をプラスの面として捉えることができて、ここまで来られているが、それをマイナスにとってしまう人も結構いると思う。

 

今現実にこの社会構造は変わっていないと思う。

そうであるのだとすれば、いかに「自己責任力」を高めていくかということは教育として大事だと思う。

この自己責任力は、チャレンジする力だと私は考えている。

なぜならば、責任を取るということは、目の前のことに対してベストを尽くし、自分のやっていることを認め、同じことを繰り返さぬように新しい生き方にチャレンジすることだと捉えているから。

 

どちらかというと今のところは、この本では、現在の構造のマイナス面が大きく取り上げられているような気がするが、そんななかでも私は非常に幸せに暮らすことができている。

きっとここのギャップにこの時代に幸せに生きるために必要なことが含まれているのかなと思っている。