今週の心がけの授業では、この本を読み聞かせした。
絵本というよりも、ほとんど本。
「コミュニケーション」とは何なのか?ということについて書かれている。
そもそもなにが「コミュケーション」なのか。
少なくともそこには二人いて、その二人の間のやりとり。
でも、「これやって」とか「あれやって」というのはコミュニケーションではない。
それは指示、伝達。
指示、伝達もコミュニケーションに入れることもできるだろうけれど、ちまたでいう「コミュニケーション」とは違う気がする。
では、「コミュニケーション」とは何なのか。
コミュニケーションは、「きもち」をボールとした「キャッチボール」
伝えることに「きもち」が含まれているものが「コミュニケーション」
その「きもち」をうまく相手が取りやすいように投げることができる人。投げられる勇気がある人。
そして、相手の「きもち」をうまく受け取れる人が「コミュニケーション」がうまくできる人。
そんなことが書いてある。
自分自身、果たして「コミュニケーション」がうまいのか?と聞かれると、「?」が浮かぶ。
どうなんだろうか・・・
投げる勇気はあるかな。
いちおう受け取れるようにはがんばっているかな。
でも、伝えるとき、なにか感情を伝えようというスタンスはないのかもしれない。
情報を情報として伝える、というくらいまで。
この本に書かれているように、もしかしたら、受け取ってもらえないかもしれないという不安があるのかもしれない。
ただ「楽しそうに話しますよね!」とよく言われるので、そういう意味では感情は意図せず伝わってるのかも(笑)
また、この本のなかで、「コミュニケーションのようなもの」という表現があった。
「役割だけから話すこと」それがコミュニケーションのようなもの。
子どもに対して、「親として」とか「先生として」とだけいっているうちは、それはコミュニケーションではないということ。
一人の人として、どう思うのかということを伝えることが「コミュニケーション」を取るということ。
これもなんとなく分かる。
いろいろと悩んでいる子どもたちが、なかなか親や先生に腹を割って話さないのは、相手が「役割」にそった答えしかしてこないと思っているときだと思う。
きっと、ズバッという人というのは、自分の役割だけから言わずに、自分全部で話すんだと思う。
だから、相手に伝わるのだろう。
本当のコミュニケーションを取りたければ、親や先生というラベルを貼った自分からだけではなく、一人の人として話をする必要がある。
そう考えると、結局はいかに自分自身を知っているか、自分自身に向き合っているか、そういうところにたどり着くような気がする。
いいコミュニケーションを取りたいならば、まずは自分自身に向き合うこと。
そして、役割、立場を越えて話すこと。
そんなことを意識して「コミュニケーション」をとっていこうと思わせてくれる本だった。