実は「自信」はない。
というよりも、「自信について考えたこと」がない。
「自信ありそうですよね。」と言われると、「はい」と答えるものの、結構自分にとってはどうでもいい。
できそうな予測とか、できなさそうな予測はする。
それを踏まえて、やるかやらないか、という感じ。
だから、自信というよりも、「やる」という意志が強いか弱いかという話のような気がする。
まぁそれが「自信があるってことでしょ」と言われたらそれまでだけど。
自己肯定感も同じ。
自分を肯定も否定もしていない。っていうかそんなことを考えているヒマがないともいう(笑)
こういう言葉を否定するつもりはないけれど、ただ目の前の課題を回避するために使っていることが多いような気がする。
「自信がないからできません。」
「自己肯定感が低いので、なかなか・・・」
いや、やりたくないだけでしょって思う。
やりたきゃやるでしょ。自己肯定感が高かろうが、低かろうが。
ポケモンGOをやっている人たちは自信があるとかないとか関係ないんじゃないかと思うわけで。
自己肯定感絡みで。
自己肯定感を高めることが本当に大切なのか、と考えてみた。
そもそもそこには、人が幸せに生きるため、という前提があり、さらにその前提として、日本人が、という前提がある。
果たして日本人が日本で幸せに生きていくために本当に自己肯定感を高める必要があるのか?と思う。
この言葉がいつできたか知らないけれど、戦後の日本人は自己肯定感は高かったのだろうか。
もしかしたら、その自己肯定感の低さこそが、今の日本をつくりあげた、ということはないのだろうか。
そして、今の日本において、自己肯定感を高めることが、日本で「生きやすい」ことにつながるのだろうか。
わたしとしては、ないものねだりをするよりも、今ある状態をリソースと考えて、それをどう生かしていったらいいのか?ということを考えたいなと思う。
自己肯定感、低くても結構。低いからこそできることがあるんじゃないか?
国際比較でそこが低いのであれば、それこそが日本の強みになりえるのではないか?という考え方もありだと思う。
自己肯定感を「高める」という時点で、すでに今ある自己を否定しているような気もする。
そして、どちらかというと、自己肯定感を高めることよりも、視野を広げる、ということをしたほうが、もしかしたらいろいろと生きやすさを獲得できるのではないかとも思う。