世代論からのキラキラなんとかと表層的学び

赤坂真二×堀 裕嗣 往復書簡: 転換期を生きる教師の学びのカタチ (教育単行本)

表層的な学び

堀裕嗣先生

赤坂先生の「若手教師」という言葉の違和感に対し、「団塊の世代」という言葉との共通性を述べ、ある程度の世代論は無視できないというところから始まり、記号化のための消費、印象操作のための消費、その感覚を持ったままの学びだと表層的な学びになってしまう。そうならないためにはどうすれば?というような内容。

 

世代論。

様々な世代の呼び方がある。
新人類、団塊の世代、バブル世代、最近だと、ゆとり世代、さとり世代、戦争を知らない世代、などなど。

確かにこのようなことは一人一人に目を向ければ、あまり意味をなさない分類かもしれないけれど、きっとその世代が政権に立った時、あるいは、権力を持った時に、そこに影響があることは間違いない。

バブルを知らない、就職氷河期第一世代の私たちの世代がその立場になったとき、どうなるんだろうか、とふと思った。

 

さて、今現在、大きな影響を持ちがちな世代。

おおまかにいえば、50代から60代ということになるだろうか。

その世代は、バブル世代?

特徴は、戦争を知らない、バブルを経験している。そういう世代。
そういう世代が経験してきたことは、個人のアイコン化といっていいだろうか。

ブランドものにその価値を感じ、乗っている車で人の価値を判断した世代。そういう雰囲気の中生きてきた世代。

この本に書いてあったように、消費がただの消費から、個人の印象操作のための消費になった世代。
今の若者がその影響から免れているうということはない。

そういう印象操作が重要視されているところに、さらにその印象操作がしやすいSNSが出現。

お金をかけずして、個人の印象操作が可能となった。

さらにその結果が、いいね、の数などといった可視化され、さらに自分の印象操作に夢中になっていく。

結果、中身のない、キラキラなんとかといった現象が現れる。

SNSなどでみる姿と、実際に会う姿に違いがありすぎるという。

これが若手教師のなかにも起こっていることで、表面上は学んでいるように見えても、実際の授業をみると、ぜんぜん違うじゃないか、ということ。

そして、学んだ内容よりも、学んでいる場面をいかに見せるかというところに注力するようになっていく。

それを見せることに時間を使い、自分自身の学びを深めるという時間を失っていく。結果、非常に表層的なものになっていく。

もちろん授業は、そこに子どもたちがいるから、学んだ通りにすることはできないのだけれど、それでも、まったく学びが生かされていないということが起きてしまう。

 

そうならないために、堀先生は3つの提案をしている。

1・活字を浴びるほど読んで先達の見方を収集すること

2・そうして学んだ「他者の目」ともいうべきもので自分の実践を分析すること

3・それをもとに同世代を中心とした仲間たちと侃々諤々、議論し続けること

 

現在の自分に照らし合わせると、すべての点において、甘い気がしている。

自営というのは、お客様が直接その実践の判断をしてくれるわけだけれど、少し気をぬくと、気がつかぬまに、安住の場所に居座り続けてしまうかもしれないと思う。

また、結果が出続けている限り、意図的に考えなければ、自分の実践を分析することの怠ってしまうし、議論の場もない。

自らやっていく必要がある。

まずはこの本にあったお勧めの本も含めて、いろいろと読み進める。