無自覚に自分の承認欲求を相手に押し付けてしまっているかも

赤坂真二×堀裕嗣 往復書簡 転換期を生きる教師の学びのカタチ

を読んで・・・

論と人

自分の言いたいこと、考えていること、伝えたいことを「論」

自分自身のことを「人」と私は捉えた。

これらを独立させていない若手が多いのではないか?

「論」の承認よりも「人」の承認を求めることが優先されてしまっていることが多いのではないか?

そういった内容。

 

このお話は学校教育に関することだけれど、一般の講師業界にも十分に当てはまるような気がする。

現在、様々な協会ビジネスとされているものがある。

アロマテラピー、ベビーマッサージ、キャリアカウンセリング・・・・・列挙しだしたらきりがない。

~アドバイザーやら、~カウンセラーやら、まぁいろいろと呼び名はある。

おそらく作り出した人は、汎用性が高いようにそのプログラムなどを構築したのだろうし、「論」を広めたいと思ってスタートしたのだと思う。

しかし、その「論」を、自分という「人」を認めてもらうための「看板」として捉える人が多いような気がする。

でも、なかなか市場がそれを認めてくれなくて、まだまだとばかりにひたすら「論」を求め続ける。

気が付けば、認めてもらいたい自分はいったいだれ?

そんな風になってしまうのかもしれない。

そして、あまりにもその自分の承認欲求に無自覚なために、だれかのためにと思ってやっていると思ってしまっていて、でも、無自覚なゆえ、自分という「人」の押しつけになってしまっている。結局市場に受け入れてもらえない、という流れ。

人は「押し売り」には敏感な気がするから。

そして、それはたまに、大元の人がそうであるように感じてしまうこともなくはない。

 

そういう人の特徴としては、無自覚にその「人」を崇める傾向があるように思える。

その「人」の言うことならば、絶対!というような。

当の本人だった場合は、自分を崇める、というような。

 

確かに、「なにを言うか」よりも「だれが言うか」というところは大きい。

最初はそれでも仕方ないのかもしれない。

でも、それを無批判に受け入れてしまうと、非常に危険な状態になってしまうのではないかと思う。

 

スタートは、誰が言うか?かもしれないが、それを鵜呑みにせず、その「言ったこと」を自分なりに咀嚼して、自分のものとしていくことが大事なのだと思う。

確かに尊敬する人の言葉は「がつん!」と来ることが多い。

しかし、その衝動的なところで終わるだけではなく、もう一度それを考えてから取り込んでいきたい。

 

振り返って自分はどうなのか。

鵜呑みにしてしまうこと3割。いろいろと考えて、多方面から見て考えることが7割くらいといった感じかな。

意識しないと、やはりそのまま取り込んでしまうことはまだあるな~と思う。

でも、以前よりはそういう意識は高まった気はする。

これって結局は「学び」をやめないということにもつながる気がする。

「鵜呑み」は楽なのだ。「なぜか?本当か?正しいか?」いちいちそうやって考えることは労力がいる。

でもそれなしには、学びは成立しないと思う。

 

そして、今ここで考えるならば、「なぜか?と考えることはなぜ大事なのか? 本当か?ということはどれくらい必要なのか? 正しいかどうかはどういう場面で使うのか?」そんなことを考えつつ、実践していきながら、その意味を体に染み込ませていくことが大事、ということになるかな。