「江戸の教育力」を読んで

江戸の教育力

実際にどうなのかは、その当時を生きている人しかわからないが、一応一般的に江戸時代の文化などに関する評価が高いし、私自身寺子屋にある種の憧れ、いや、吉田松陰のやっていた寺子屋に対する尊敬の念があるので、やはり読んでみようと思って読んでみた。

そこになにかしらの今の日本の教育を打開できるヒントはないものだろうか、という思いも。

 

【当事者意識】

江戸時代と今の時代を比較できる範囲で比較するとすると、「当事者意識」がまったく違うと感じた。

当時の寺子屋や私塾は、国になにか言われたからといってやっているものではなく、各地域の有志が中心となって開かれていた。

そこには様々な背景があるとは思うが、おそらく目の前にある課題(家継ぎや仕事)をなんとか乗り越えなければいけない、という庶民の事情があったのだと思う。

そして、それならば!と立ち上がった人たちの存在がいたのだろう。

そのように「教育」というものが、しっかりと実社会の要望と教育者の意識に結びついていたために、「当事者意識」をお互いが持てていたのだと思う。

 

果たして今はどうだろう。

多くの人は、ただひたすら国頼み。(学校頼み)

そんな気がしている。

教育は「国(学校)」しかできないのだ、と思い込んでしまっているのではないだろうか。

また、今ある「学校」の形は、国全体のことを考えられて作られている。

要するに、地域のことはくみ取ってもらえていないわけだ。

国が必要としているものをしっかりとやっておけば、地域も同じだろうと思われているのだろう。

そういうもののなかで作られているものだとすれば、地域の実社会と教育のかい離が広がってしまうのも仕方ないことだと思っている。

そういう「思い込み」や目標・目的とのかい離が激しい中で「当事者意識」を持て!と言われてもなかなか難しい。

しかもそこで教鞭を取っているものが、地域とは関係ないものであればなおさらである。

 

私は今の教育に疑問があるのであれば、もっと声をあげて、行動をしていくことが大事なのではないかと思っている。

「公教育に取り入れて」といっているうちは、結局はそれは国頼みであり、他人事である感覚が残る。

そこに当事者意識は生まれにくい。

もっと当事者として、提案や行動をしていかなければならないと思う。

今ここで何が必要とされているのか。

今この地域で何が必要とされているのか。

そして、それが今行われている教育と違っているのであれば、それを打開できる教育を提案していくべきなのだと思う。

そして、当事者意識を持って、実行していかなければならない。

 

正直今の自分にそんな余裕はない。

ほとんどの余力は「税金」に吸い上げられてしまっている(苦笑)

生活するのでいっぱいいっぱいだ。

 

しかし、そんななかでも「やむにやまれぬ大和魂」で行動しなければいけないと思っている。

江戸時代の人にできて、今の人にできないわけがないと思っている。

同じ人間なんだし。

 

 

ちょっと話しは飛んだが、市民がどれだけ国任せにせずに行動していけるのかがとても大切だと思う。

たとえ一人一人の力は小さかったとしても、今は「つながり」を作りやすい世の中でもあるし、細いながらもつながっていけば、大きな力になると思う。

草莽崛起

それくらいの意識でないと、地域、そして、日本も厳しいと思っている。

 

この本自体には、実際にどのような教育をされていたのか?とか、授業料はどうだったのか?とか、様々な資料を基に書かれていて、おもしろかった。

今回は取り上げなかったが、教育と躾の関係性もとてもおもしろい。

礼儀・躾教育のがあってこその教育だったらしい。ここがセットになっているというのも、とても大事なことだと思う。

今はそれをないがしろにして、さっさと(文字)教育に入ってしまう。それより先にすることがあるだろう、と思う。

ほかにもどのようなネットワークを持っていたか。

どのような思想を持っていたか?なども書かれている。