インクルーシブ教育ってどんな教育? その1

インクルーシブ教育ってどんな教育? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)

青山先生が編集代表をしているこの本。

いつもお世話になっている赤坂先生も著者のひとり。

 

自分なりに「インクルーシブ」とはなんなのかを考えてみた。

いや、なんなのか、というよりも、なんのため、にとまず考えてみた。

 

その子、あるいは、その人にどのような特徴があったとしても、その「個」が幸せに生きていくため。

幸せとは、人間教育を長年研究されてきた小田全宏氏によると、

1・毎日が楽しいと感じられること

2・人間関係がよいこと

3・成長する喜び

だとしている。

一人一人それぞれの状況において、こういった「幸せ」を感じられるように環境や状況、マインドをを創り上げることが大切ということになる。

これを達成するための考え方としての「インクルーシブ」

 

いろいろと考えたが、まず一つ切り離したほうがよい考え方がある。

「平等性の大切さ」

だれもが同じ内容の教育機会を得ることが大切だ、という発想。

平等性が悪いといっているわけではない。でもあえて書いたのは、

今まで作り上げてきた「平等性の大切さ」があまりにも肥大しすぎてしまったように感じるからだ。

そして、半ばそれが「権利」ではなく「義務」というくらいにまでなっている気がする。

しかし、その「機会の平等性」をどう捉えるかは、最終的には「当人」

だから「同じ機会」というのは、厳密には存在しない。

一人一人違うから。

「これをやったから、いいだろう」という定型なものは存在しない。

それをチェック項目で「これとこれとこれが入っているから、最低限の平等性は保たれた」とやっているうちは、結局そこで「自分」あるいは「相手」の考えや捉え方をおろそかにしてしまう。

そして、その「平等性を担保しよう」という行為が、その枠組みをつくることで、結局排他的な雰囲気を醸し出してしまう。

 

このように考えると、当事者である子どもたち、あるいは、先生たちの現場での対話が必須であることになる。

その人にとっての「機会」はその人に聞かなければわからないから。

これは学校だけではなく、家族も同じだと思う。

 

インクルーシブ教育は、「プロセス」であると書いてあった。

国や自治体、学校や教師が勝手に決めたものではなく、当事者を巻き込んだ対話のプロセスがインクルーシブ発想の重要なひとつの要素だと思った。

まさに、Nothing About US Without Us

また、「つながり方」についても思うところがあったが、それはまた次回。