教育マニア向け?のエピソード本というのがある。
今まで赤坂真二先生、青山新吾先生のものを読んだ。
今回堀先生の本を読んだ。
そのなかに、「振り子論者の肖像」という章があった。
そこを読み、今自分がやっていることを思い浮かべた。
学習塾と自主学校(フリースクール)
それはもう180度違うといっても過言ではないかもしれない。
これ以上ない振り子。
それくらいの振れ幅がある。
昼は、活き活き、そして、伸び伸びしている、そして、ダラダラしている(笑)子どもたちとともに過ごす。
夕方は、疲れ切って、時には居眠りをしつつも、宿題の〆切に追われて、それでも、昨日まで知らなかったことを知れたり、できなかったことができるようになったりする子どもたちと過ごす。
いったい何が「学校教育」なんだろうと純粋かつ混沌とした思いが湧いてくる。
でも、それをやめたくない自分がいる。
なぜか。
それにはこんな理由があったりする。
「正しさの暴力を減らす」
どちらかに偏ることで、「これが正解!」と決めつけてしまいそうな自分がいる。そして、そうではないもう一方を表面や言動にはでないまでも、雰囲気として一方的に責めてしまいそうな自分がいる。
また、どうしても「学校教育」というのは大きな正しさの権力と正義の力を持っている。(と、保護者も子どもも大半の大人もそう思っていると思う。)
そして、そのパワーに頼って関わろうとしてしまう自分がいる。
でも、こうして両極端のものを常に体感しておくことで、その「責める」感覚や「正しさ」を利用した関わりが減らせるのではないかと思っている。
視野が狭いと、自分がやっていることが「正しい事」と思い込んでしまいがち。
そして、それを人に押し付けてしまう。
自分が正しいと思い込んで押し付けることは、ときに人を追い詰める。あるいは、傷つける。
そんな気がしている。
だから、どちらかに立ち止まってしまうことはできる限り避けたいと思っている。
あっちにいったり、こっちにいったりしているうちは、そんな正しさを押し付けることはできないだろうから。
そして、こうやっているうちに、「あちら」と「こちら」を繋ぐ、「動的な何か」が創造できるかもしれない。
そんなことを期待している自分もいる。
少し話がそれたけれど、視野が狭いということは正しさの暴力(教育虐待)につながることもある。
だから、できるだけ多様な人、あるいは、普段とは真逆の価値観を持っている人やシステムと出会い、その違いを体感しておくことで、そういった自分の正しさのパワーに歯止めを効かせられるようにしておくことは大切だと思う。
そして、それは、親のひとつの努めかもしれないし、先生の努めかもしれない。