先日観ていたDVDで、鼎談されていた先生がおっしゃっていたこと。
「どんなものにしても、いずれ終わるかもしれないということを考える。」
確かに英語教育も今かなり力いれているけど、10年後、「英語で日常会話を話せる」というレベルのものであったら、様々なツールの発達により、必要なくなっている可能性はある。
いま将来への投資だといって、せっせと幼児教育で英語をやっていて、「英語を話せる」ということだけを目標にしていると、その子どもが40歳になったとき、なんのメリットもなくなる可能性は大きい、なんてことも考える必要はある。
これは学校教育にも言えると思う。
今後英語学習は小学生低学年から始まる。
しかし、その子どもたちが大人になったころ、果たして英会話能力というものが必要なのだろうか?
この英語学習の背景には、「グローバル化」というキーワードにあるが、果たして英語が話せることが必要なのだろうか。
特に「公教育」で。
公教育の大前提として、出来る限りの人たちが生きる上で必要なものを学べる場なのだとすれば、一体10年後、20年後、どれくらいの子どもたちが「英語を話せる」ということが必要なのだろうか。
現在7割の日本人は英語が話せないという説もある。
いろいろな視点はあると思うが、本当に英語が必要なのは、一部だけなのかもしれない。
もし今ある格差の原因が「英語能力にある」というのであれば、やったほうがいいとは思うが、もしこれが、一部の人たちの英語に対する変なコンプレックスが元で実施されているのであれば、本当にやめてほしい。
もちろん好きな子どもにはやらせればいいが、そうでもない子どもに強制的にやらせることだろうか。
本当に私たちが世界で戦わなければならないのだとしたら、必要なのは英語ではなく、「日本で生きてきたことの価値」を伝えられることではないだろうか。
あるいは戦うのではなく、協力して相乗効果を発揮していくのであれば、言語構造が欧米とは違う日本語をしっかりとやることが、世界の仲間と協力し相乗効果を発揮することにつながるのではないだろうか。
「公教育」では、そういうことを伝えることの方が、英語教育よりも先のような気がする。
今回はたまたま最初に挙げた「いずれ終わるかもしれない」ということをもとに物事を考える例として、英語学習を題材にしてみたわけだけれども、ほかのことにも同様に考えることで、新たな見方や考え方ができるのかもしれない。