よい教育法、よい教師、よい教育行政

第四章 実践理論の展開序説

教育の本質

「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」

この原理に基づき、

1・教育方法の根本的な考え方

2・「よい」教師の条件

3・「よい」教育行政の在り方

 

1教育方法の根本的な考え方。

どうやら私はあまり知らないが、教育界では、教授法などにおいての対立があるらしい。

どっちがいいか?とか何がいいか?ということ自体、「そんなものはわからない」として、あえていえば「社会で幸せに生き抜くこと」ができれば、なんだって使えばいい。教え込みだって、経験重視だって、どちらだっていいじゃないかと思ってきたので、ちょっと肩透かしを食らった感じ。

ただ、そうやって対立が起きてしまった原因のひとつとして、「よい教育」とはなにか?という原理が明確にされていなかったことはあるのだと思う。

この著者も最後に書いていたが、ここで明らかにされた「原理」がどのように実質化することができるのか?ということを、これから積み重ねていく必要はあるだろう。

 

2・「よい」教師とは

子どもの「よい」成長=<自由>がでいるだけ十全に実質化されていくこと。

<自由の実質化>・・・3つの承認

1・自己承認

2・他者の承認

3・他者からの承認

この3つの承認を成熟のために教師に求められる資質

・信頼

・忍耐

・権威(子どもが、信頼したい!と思えるようなことであって、人をひれ伏せさせるような高圧的なものではない)

これらの土台となるのが「自己了解(自分の価値観や感受性に対して自覚しておくこと)」

 

3・「よい」教育行政とは

ここもいろいろと権力闘争になりがちなところがある様子。

これも教育手法と同じで、一手段に過ぎないと思う。

ここでの基準は「一般福祉」

すべての子どもたちが「良く生きる」ことを保証されるかどうか?ということを基に、それではどういったやり方がよりそこに近づけるのか?ということを考える必要がある。

 

そして、終章

まだまだこれはスタート地点。でもひとまずこれをベースとして、これまでの、そして、これからの知見を持ち寄って、さらに問い続け、答え続けていくことが大切、ということで終了。

 

ということで、なんとか読み終えた。

まだまだ考えなければいけないことはたくさんある。

果たしてなにをもって、「生きたいように生きている」と思えるのか?

果たして本当に<自由に生きること>がすべての人につながっていくのか?

これを基に、いろいろと話しをしていきたい内容だった。