ようやく読み始めた。この本は2013年2月に購入したとアマゾンが教えてくれた。
随分時間が経ってしまったな・・・
でも少し前に自分のなかで哲学ブームがあり、入門編を読んだことが、今回のこの本を読む流れにつながったのかな。
無意識だったけど、いろいろとつながるものだな。とりあえず序章。最初このタイトルを見たときに、凄いタイトルだな、と思った。
なにが「よい」なんて言えないだろう、と。
でもどこか自分なりに「よい」と思っていることはあるわけで。
それは、どんな教育者にとってもあるのだと思う。なければやっている意味すら見えなくなる。
でもやっぱり、どのような教育が「よい」教育か、なんて言えないんじゃないかと思っていた。
まだ途中だけれど、読み始めて、まさにその点が書いてあった。
あまりにも「人それぞれだよね」という雰囲気が大きくなり、なにが「よい」といえなくなってしまった昨今。
「道徳性の育成を!」といったところで、場所や時代によって道徳は変わっていく。
もし「これこそが道徳であり、教育はこれを目指さなければならない」と誰かが主張したら、それは時にひどい暴力になる。
と書いてある。
そう、正論や道徳の持っている力は時に人を傷つける。
そして、そうならないように、どのような教育を論じたとしても、「それはそうだけど、違うときもあるよね。絶対的ではないよね。」ということになってしまう。
そんななかでもなんとか「よい」教育を目指そうと、様々な主張をしている。
・個性を尊重する教育は「よい教育」である。
・経験を活かした教育は「よい教育」である。
・平等な教育は「よい教育」である。
などなど。
そして、だいたいがそれぞれの発想や立場が異なることで、対立してしまう。
そして、もうそんな絶対的なものなんてありえないんだから、答えを探しても仕方がないじゃないか、ということになっていく。
それでもやっぱり、「よい」教育とはなにか?という問いは常にそこにある(少なくとも私にはある)わけだから、それに答えようとする必要はある、ということ。
こういう時代だからこそ、そこはやはり向き合うべきだと私も思う。
そこでこの本では次の流れで追及していくということに。
1・相対化の論理をせき止める。
そのためにフッサール現象学を方法として使う。
現象学は、絶対的真理を認識することは不可能である、という前提あるが、人それぞれではあるものの、そこには「よい」と感じる事実がある。それ自体は明らかであり、それを相対化することはできない。だからこそそこを出発点として考えていくことで、教育の相対化をせき止める。
2・共通理解の探求へ
そして、個人がそれぞれ「よい」と思ったプロセスなり、成立条件を相互に確かめ合いながら、共通理解を見出そうと試みる。
ざっくりいってしまえば、一人一人が「いいな~」と思ったことを挙げ、それが成立した条件などを考え、それを共有していく、ということかな。
これを可能にするのは、多くの教育理念を持った人たちが対等に話し合うということが必要だと思う。
そう思うと、10月30日に行う教育イベントは、まさにそこに向けた試みであるとも言える。
そして、この後は、著者が投げかけたい「共通理解」について書いてある。
ヘーゲルの自由論と相互承認論。
ここはまだ序論ということもあり、私の理解はまだ浅い。
これから読んでいくなかで、深めていきたい。