オリンピックもだいぶ進んだ。
今日、講座のなかで、オリンピックの話になった。
「そういえば、『参加することに意義がある』という言葉を聞かなくなりましたね。」
私が小学校の頃は、この言葉はまだ生きていた気がする。
「結果なんか気にしなくてもいいんだよ、参加することに意義があるんだから。」
というような、本来の意味とは違った意味で使っていた気はするが(苦笑)
それでも確かにその「言葉」は生きていたなろうな、と今は思う。
私の意識がそういう意識を持ってないから、その「言葉」に出会わないだけかもしれないけれど。
「出るからにはいい成績を!」という圧力がすごく強いような気がする。
さらに4年に1度という機会がそれに追い打ちをかけている。
そういう空気感が「参加することに意義がある」という言葉を消してしまったのではないかなぁ。
使い方が違っていたとしても、この言葉を使える余裕がある社会だったのかなと今は思う。
今は、社会では成果主義という空気感が膨張したし、それが学校教育や家庭教育にまで浸食して、
「できなければいけない、役に立たなければ意味がない、成果をだしてこそ意味がある。どうにかしてうまくいかせたい。」
もちろんそういうところはなくならないと思う。
でも、あまりにも膨張して、肥大化して、よくわからないままその空気感に圧迫されて、生きにくくなってしまっているのではないか。
「参加することに意義がある。」
もともとは、「人生において重要なことは成功することでなく努力することである」というのが元の意味であったという。
これを勝手にひねって考えると、
「生きてることに意義がある。」
たとえ多少目の前の課題解決や仕事に役に立たなくても、そこにいることに意義がある。
うまくいかなくたって、たとえ一時期一人になったって、それでも生きてるだけで意義がある。
そんな風に思えるような社会にしたいな。
昨日の関ジャム、いろんな意味で面白かった。