フォーマルセオリー(公式理論)
科学者や研究者が、ある特殊な状況や実験環境を作り出して取得したデータに、さまざまな統制を加えた上で結論やモデルを導き、その果てに構築する。
フォークセオリー(素朴理論)
実務家が自分の経験や見聞きしたものからつくる。持論。
フォーマルセオリー:「浮世離れ」しやすく、抽象化がどんどん進み、モデルが複雑になり、やがて現場で通用し精緻化されていくにつれ、本当は、何が解決すべき問題だったのかがわからなくなる。
フォークセオリー:正確さと信頼性に欠ける。あくまで自分が今まで経験したものに過ぎず、いつでも当てはまるかどうかわからない。
以上のことより、大切なことは、この2つに「良好な緊張関係」が存在すること。
どちらかに肩入れしてしまうと、二つの理論のうち一つから学ぶ可能性が失われる
自らの知性が、フォーマルセオリーとフォークセオリー両方に開かれている必要がある。
開かれているというのは、この本ではもう少し後にでてくるところに書いてあった「組織学習を支える要因」と関連すると思う。
1・精神的な安全
2・違いの尊重
3・新しいアイディアの許容度がある
4・批判的なコミュニケーションをオープンにできるかどうか
特に「教育」というのは、だれもが語れるもの。語れてしまうもの。
この本にも書いてあったが、その理由が2つ。
だれもが被教育経験があること。そして、結果がすぐでるものではないもの。
だから、メソッドや持論に深く踏み込んでしまいやすいのが教育。
たまたま自分の子ども(部下)がうまくいった(親や周りがそう捉えているにすぎないものが多いような気がするけど)だけで、それをあたかもフォーマルセオリーのように喧伝しているのもよくみる。そして、それを盲信する人たちもよくみる。
ただ、それを否定してしまっては開かれるとはいえないわけだから、自分の実践やその他のフォーマルセオリーと照らし合わせてみることが大切。
逆に、自分のいいなと思ったフォーマルセオリー(例えば、私の場合はアドラー心理学や7つの習慣やアクティブ・ブレイン)があたかも万能であるかのように盲信してしまい、相手のことを見ずに、ただそれを実行してしまう。
これもよくある。様々な教育法がこれにあたるだろう。一斉指導、体験学習、アクティブ・ラーニング、『学び合い』といったところから、サドベリー教育、イエナプラン、モンテッソーリ、シュタイナーなどなど。
それぞれのフォーマルセオリーの特性、特徴をしっかり見つつ、目の前の相手を見て、そこでまた考える。そんなことが大切。
この投稿の最後に、中原先生からの、自戒を込めた問い。子どもも付け加えてみた。
あなたは、大人(子ども)に学べという
あなたは、大人(子ども)に成長せよという
あなたは、大人(子ども)に変容せよという
で、そういう「あなた」はどうなのだ?
あなた自身は、学んでいるのか?
あなた自身は、成長しようとしているのか?
あなた自身は、変わろうとしているのか?