久々に不登校に関する本を読んだ。
オルタナティブ教育をやっているものとしては、まず前提として、オルタナティブ教育選んでいる生徒はそもそもこの対象にならないということ。
まぁもともと選ばせてもらっていないから、微妙なんだけど。
ここに関しては、おそらく、まずは子どもが小学校に上がるときに、どういう学校に行くかを親と子が選ばなきゃ、既存の学校に行けないのか、既存の学校に行かないのかという議論にもならないよな、と思った。
まぁでもそういう状態でもいいからとりあえず読んでみるかとがんばったけれど、きっとこの本に書かれている大切なことよりも、言葉の端々に気がいってしまった(苦笑)
不登校問題の解決に時間がかかる、とか。そもそも解決っていっている時点で問題視してるよねぇ~ 不登校であることは意味があることといいつつ・・・
困っているのは子どもだ、とか。本当に困っている子どもたちばかりだろうか。だいたい困っているのは先生という役割を全うしなければいけないと思っている大人のような気がしないでもない。
定期的な家庭訪問、とか。これと朝の確認電話。こういったものが親にとってどれくらい負担になっているか考えたことがあるのかな、と思ったりもする。
もちろんどれにしても、相手との話し合いが大事なわけで・・・
基本的に、「子どもは学校に行きたい」と思っている前提がすべてにあるわけで・・・
また、「学校に行かせたい」と思っている親がいるわけで・・・
そのうえでの対策。
でも行きたいと思っているかどうかなんて本人にはわからないことも多い。
そうなると、結局「いけない」という事実を創り上げているということで判断するしかなくて、それは「行かない」ということだと思う。
親だって、必ずしも「行かせたい」とは思っていないこともある。
もし自分が子どもの頃いじめにあっていて、それと同じようないじめに子どもがあったとしたら、行かせたいと思うだろうか・・・
子どもも親も学校に行きたい!とはっきりと意思表示している状態という前提での対応の仕方だと感じた。
そして、「既存の学校教育が絶対子どもにとってはいいものだ!」というような揺るぎない正論を感じた。
それが一番気がかりだったかも。
私は逆に学校に何の疑問も抱かずに、通っている生徒の方が心配だ。
何にも気づかずに学校の持っている価値観に染まっていってしまうから。
さらに最近は、疑問に思ったとしても、「疲れる、面倒くさい」という理由で、その疑問を忘れて楽に学校に通うということも増えていると思う。
だからこそ「学校自体」が自分たちの持っている価値観を正論とするのではなく、常に懐疑的にいる必要性があると思う。
そして、常に教員は、「学校とは?」「教育とは?」「社会とは?」ということを考え続ける必要があると思う。
なんだか話がごちゃごちゃだけどまぁいいか・・・
一人一人違う存在なわけだから、これをやったら大丈夫!というものは絶対にない。
結局は一人一人との関わりのなかで、そのとき思うベストの関わりをするしかない。
そして、なんのためにそれを選んでいるのかということを常に頭においておきたい。
ただ、今の学校現場がそれに対応できるのか?というと、かなり困難だと思う。
もちろんだからといって、対応を改善しないのはおかしいから、様々な書籍を読んで、しっかりとその子にあった、その保護者にあった対応していってもらいたい。
で、今の自分にできることは何なのかということを考えると、やはり瀬戸ツクルスクールのようなオルタナティブ教育を知ってもらい、理解してもらうことなのかな、と思った。
なんていろいろ書いているうちに、だいぶ落ち着いた(笑)
オルタナティブ教育がないという地域や親が子どもを見ていられないという家庭では、確かに書いてあったような手立ては必要だと思うし、有効な手立てだと思う内容だと思った。