勇気づけの半分は・・・

今日は「勇気づけて躾ける」の読書会。

 

第三章の「勇気づけ」

勇気づけの章だけあって、大切なことがたくさん書いてあります。

この本、分厚いだけあって、事例も視点も考え方もかなりしっかり書いてあります。

ここをしっかり読めば、聞くだけのセミナーはいらないんじゃないか?というくらい(笑)

ただし、身につけることと知ることは違うので、やっぱり身につけるためのトレーニングと励まし合う仲間は必要ですけどね。

 

まず最初になぜ子どもたちには絶えず勇気づけが必要なのか?ということが書いてあります。

勇気づけなしには、成長することも所属感も持つことができないと書いてあります。

なぜならば・・・

子どもたちには、大人は途方もなく大きく、驚くほど有能で、信じられない能力をもった存在に映っているから。

 

これ、どれくらいイメージできますかね。

 

好きかどうかわからないし、やったこともトレーニングしたこともあまりないのに、本田とか香川とか岡崎とか長友と同じピッチに立ってサッカー試合するくらい、といったらイメージできますかね。

そんななかで、ミスをしたとしたら・・・(基本的に子どもは「できない」ことのほうが多いですしね)

 

あるいは・・・

自分が同じ大人だとしても、驚くほど有能だと自分が思っている人に囲まれ、そこで失敗したり、ミスしたりしたとき・・・

たまたま今日は教育仲間のSバタさんつながりが多かったので、いっしょにSバタさんと仕事になったとして、Sバタさんレベルの人が3人いたとして、そこでどんどん横で仕事されていっているときに、自分が失敗してしまったら・・・といったら、めちゃイメージできたようです(笑)

 

そんなときに勇気づけなしに成長できるでしょうか?

 

というところなんでしょうね。

私たちは自分たちもそうだったはずなのですが、いつの間にかそういう子どもの視点を忘れてしまうときがあります。

まずは子どもが見ている世界はそういう世界でありえるということを認識する必要がある。

 

そして、勇気づけ。

 

勇気づけの半分は・・・

 

屈辱あるいは過保護(現代は過干渉も含まれるかな)による挫折を取り除くことにある。

そして、残りの半分は勇気づけの方法を知ること。

いくら「勇気づけ」の方法を知っていて、完璧にできたとしても、コップは半分しか満たされないということですよね。

 

アドラー心理学も私の周りではだいぶ浸透してきて、「勇気づけ」といっても通じることが多くなってきていますが、この前半の半分はあまり語られないことが多いような気がしています。

屈辱を味あわせる。

「忘れものをしたら前に立たせる」から始まり、「他人の前(兄弟の前)で大声で怒鳴る」「テストの順位を知らせる」など。

過保護。

できることはずのことを本人にさせない。炊事洗濯なんて、昔は子どもの仕事だったわけですから、今やらせないのはある意味過保護。

親はよかれと思っているかもしれないけれど、自立に向けての勇気をくじいてしまっている。

 

「勇気づけ」って何をしたらいいんでしょう~ということですが、行為を与える、変えるということもそうですが、行為をやめる、ということも「勇気づけ」なんですよね。

 

ただ、確かに「やめる」というのはある意味困難なことでもあります。

代替行動を考える必要があるかもしれません。

それもできない場合は、その場から立ち去るというのがいいかもしれませんね~(笑)