第三部 アメリカの夢と影ー労働・消費・文芸
第1章 日本的経営とは何だったか
戦後の日本的経営
第一幕
1958年 ジェームズ・アベグレンによって発見
冷戦下において、欧米方式とソビエト方式に含まれない第三の工業化方式
1・単一企業で永続的かつ終身的な地位を持つ構成員
2・職務や技能ではなく、個人的な特質に基づく採用
3・「工員」と「職員」など固定的・差別的な身分制度
4・年功的体系に基づく現金・現物を組み合わせた給与
5・多数の階層・職位とはうらはらの集団的意思決定
6・従業員の個人的生活に対する会社の広く深い関与
そして、これを封建制度によるものだとした。
しかし、日本人の占部は戦後の重工業化による大衆化、そして、それを囲い込むためにできたと指摘。
著者は、1950年半ばの労使交渉の末、終身雇用、年功制を勝ち取ったと考えている。
象徴的なものが、半年続いた日鋼室蘭争議
第2章
1965年 QCサークルなどの現場社員の経営参画による「明日への希望」 ただ働くだけではなく、労働する「個」が労働を通じて成長するという社会意識
階層移動が終焉していることも関係あるかな。ある程度自分の位置が定まってきたので、そこでの意味を見つけ出すための流れだったかもしれない。
評価として、能力主義から多能工性も含めた評価
オイルショック 多品種少量生産に。
第3章
1979年 第二次オイルショック後
日本だけフレキシビリティを背景に、いち早く立ち直る。
トヨタ生産方式が代表的
多能工性が力を発揮
この成功によって、第二次オイルショック後に起こった、世界の変化である近代工業社会モデル自体の終焉に気づいていなかった。
産業の主役が生産装置から設計・運営(知識)する人に移っていた。
感想
日本的経営のある程度の安定と上昇思考の終焉→日々のやりがいを見つける流れでQC活動などで自己の成長→それを最大限に生かしたトヨタ生産方式。
バブルとして浮かれていた時期、オイルショックの失敗を糧に次に目を向けていた欧米諸国と、自分たちの成功に溺れていた日本。
まさにチャンスがピンチだった。
ピンチは分かりやすく対応も気概をもってできるけれど、チャンスをまとったピンチは気づくことなく、あるいは、きづいていてもそのまとったものの中をみることの恐怖により、見ようとしない結果、90年から始まる後手後手になっている変化への対応につながっているのかもしれないと思った。
ようやく20年経った今、いや正式にはさらに10年後、そちらに教育の舵を取ろうとしているが、果たしてそれでどうなのか、という気持ちがある。
たぶん遅きに失するだろうな。
とにかく今はスピードに対応する必要がある。
そのためには小回りの利くサイズにする必要があると思う。
日本全国それぞれ状況が違うのに、同じ教育をしようとしても結局はミスマッチになってしまうところが増えるのではないか。
そのためにもさっさと地方分権化して、小回りがきくようにして、地方が本気で地元の課題解決策を踏まえた教育を行えるようにすることがよいのではないかと思っている。
まぁ待っていてもされないだろうから、市民が自らつくりあげる必要があるように思う。