子どもの判断力

喜多川さんとの時間を振り返っているけれど、録音したわけではないので、すべて私のメガネで解釈した上での言葉になっているので悪しからず。

前回の続き。

ここでもごく自然な返答だった。

 

やはり自分の辿ってきた道以外の道を行くということは、不安になるだろうし、今の日本の現状や辿ってきた道をみても、受け入れにくい選択肢だろう。

 

というように、このあたりはだいたいよくあるやりとりだった。

お互いの今見えている景色を確認した感じ。

ここを確認することはとても大事だと思う。

これをせずに話をしてしまうと、噛み合わない会話になるんだろうと思う。

あまりまとまらない私の話を大切に聴いてもらえたので有難かった。

 

よくある疑問。

幼児の子供に学校を選択できる判断力はありますか?

私の見えている景色からすれば、自信をもって

Yes!

 

たまにどこかで言われているように、子どもは親を選んで生まれてきたという視点でみれば、そんな重要なことを選択してきたのであれば、これくらいの判断は苦でもない。

もっと現実的にいえば、食べ物の好き嫌い、服の好み、好きな色など、乳児や幼児でも十分に判断している。

 

だいたい次に来る質問は、

経験していないのに、選べるのか?

これはほかでもない私自身が思ったこと。

これに対しても、今は

Yes!

と言える。

そもそも大人だってすべてを経験している訳ではない。

でも選んでいるわけで。

最後は、勘!というような。

 

もちろんそれは、大人になるまでにしてきた経験と知識の蓄積があってのことかもしれない。

でもその経験や知識が果たして効果的であり、効率的なのかは、なんともいえない。

むしろそれが足枷になることすらあるわけで。

そうであるなら、経験や知識の有る無しで、自分ではない人や子どもの判断について疑いを持ちすぎ、その判断を許容しないのは、その人の独りよがりな行為だと思う。

 

こんな話をしていると、

でもやっぱりそれくらいの年であれば、親の選択の影響は大きいですよねって話にもなる。

確かにそうかもしれない。

だからこそ幼稚園に入れるときは多少なりとも考える。

しかし、なぜ小学校に入れるときはそれをしないのだろうと思う。

小学校に行ったからといってすべてがプラスに働くわけではない。

得られるものもあるけど、失うものだってある。

何がよいとかそういうことではなくて、思考停止にならずに、そのあたりをしっかり考えることが大切なんだと思う。

 

そして、この思考の機会を与えることがツクルスクールの存在意義なのかもしれないとも思っている。

 

話している中でもそんな話がでてきた。

存在意義。存在目的。

一体自分の取り組んでいることの、意義はなんなのか。

ここはしっかりとぶれずにいたいですよね、という話にもなった。

続く。