アドラーのこういう考え方はとても好き。
「遺伝の理論は、教育や心理学の理論と実践においては、決して強調してはいけない。
誰もが必要なことはすべてできる、と仮定するべきである。
もちろん、このことは遺伝素質に違いがあることを否定するということではない。
重要なことは、常にそれをどう使うかということである。
だからこそ、教育が非常に重要なものになるのである。
適切な教育とは、能力と無能力に関わらず、人を発達させる方法である。
無能力が勇気と訓練によって偉大な能力となるほどに補償されることさえある。
無能力であるという自覚は、適切に対処すれば、高度な業績を達成するよう人を刺激する。
最初は、自分には能力がないという強い劣等感を持っていた人が、人生で目覚ましい成功を収めたという例がよくあっても驚くことはない。
他方、自分は遺伝された欠点と無能力の犠牲者であると信じている人が、絶望して努力をしなくなり成長が永久に遅れるということもある。」
遺伝子についての研究が進み、今ではその子どもがどういう分野が得意なのかわかる、というようなサービスも存在しているらしい。
もちろんそういうものを作った人は、少しでも子どもたちが自信を持てるように、と思ってやったのだと思う。
そして、それによって救われる子どももいるとは思う。
ただ、それには副作用があるということを忘れてはいけない。
その結果に基づいた「決めつけ」の大人の行動。そして、その「決めつけ」による、もしかしたら発揮されたかもしれない能力を埋没させてしまうかもしれないこと。
果たしてそれを大人がしてしまう権利があるのか?
何かに躓いて、どうしようもなくて、にっちもさっちもいかなくなって、そこでやるのならまだしも、最初からここに頼るのは私はやっぱり違うと思う。
人は生まれた時点で、これから生きるために必要な能力はすべて備わっているのだと信じている。
その人・子どもの能力が、ある人からみたら無能力に見えるかもしれないけれど、また違うある人からみれば、素敵な能力になる。
ある人には役に立たない能力かもしれないけれど、また違う人からみれば、とても役立つ能力だったりする。
苦労して苦労して、それこそ遺伝的素質が影響してできなかったとしても、その苦労したことは他のだれにも経験できないその人だけの財産になり、それが大きく人に貢献することだってある。
そういう有能感を持つことで、自分を丸ごと受け止められると思うし、他者も受け入れられるのかなと思う。